藤圭子さんが亡くなったことについて、娘の宇多田ヒカルさんが9月5日、公式サイトに『藤圭子を長年応援してくださった皆様へ』と題した文章を掲載しています。ヒカルさんがお母さんの死について書いた文章を公表するのは8月26日(藤圭子さんの死亡から4日後)に次いで2回目となります。
http://www.emimusic.jp/hikki/from_hikki/
2度目のメッセージが必要だったのは、雑誌やテレビなどで身内の間でのあつれきといったものがスキャンダラスに取り上げられ、一方的な誤解はただしておきたいという必要性に迫られたということではないでしょうか。推測なので、これ以上は控えます。
もちろん、藤圭子さんはかつて時代を表現するかのような存在の人気歌手であったし、宇多田ヒカルさんは、歌手活動の一線からは引いているとはいえ、いまなお多くのファンを魅了してやまない歌い手さんです。ファンだけでなく、音楽業界の多くの関係者の間からも長く消息を絶っていた藤圭子さんの投身自殺が、とりわけかつての藤圭子ファン、現在進行形の宇多田ヒカルファンに衝撃を与えたことは疑う余地もない・・・などということは、私のようなものがあえて書く必要もないほど疑う余地はありません。
でも、その後の報道は行き過ぎです。身内の間でのトラブルや行き違い、感情のぶつかり合いなどは、仮にあったとしても、当事者同士が対応すればいい話で、他人が口を挟む筋合いのものではない。この点は著名な芸能人であっても変わりはないのではないか。私はそう思います。
すぐれた芸能ジャーナリズムはいずれ、藤圭子という歌手の存在が時代の何を表現していたのかといったことについて、綿密な取材に基づくレポートを公表することになるかもしれません。でも、それはいまスキャンダラスなかたちで家族の愛憎劇のようなものを煽るように報じることとは違うのではないか。違うに違いない。
何を対象としたいのか、そして、その対象の何をどう伝えるのか。この点についてもまた、いたずらに規制を多く設けたり、傍からとやかく言ったりするようなことがなるべくないようにしてほしい。そうした思いはもちろんあります。
しかし、その一方で、そっとしておく時間を設ける配慮があってもいいのではないかということも様々な場面で強く感じることが多々あります。今回の件に関していえば、少なくともいまはそっとしておくべき配慮を優先させる時間なのではないでしょうか。