友情の起爆力 『愛と差別と友情とLGBTQ+』

 これこそが偏見なのかもしれないと薄々反省しつつ、北丸雄二著『愛と差別と友情とLGBTQ+』を手にしたとき、最初に感じたのは「友情」への違和感でした。「愛」や「差別」なら分かる。でも、「友情」はどうなの? そんな違和感です。

 ただし、著者にしてみれば、そうした違和感が広がったままの社会であることこそが、400ページを優に超える大著を一気に(なのかどうかは分からないけれど、たぶん)書かせる大きな力になったようにも感じられます。

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 どうして「友情」なのか。いったん読み終え、改めて最初に戻ると、北丸さんはプロローグでもすでに、そのことに言及していました。例えば、37ページ。

 『とはいえ、そんな事情を知る由もなかった私の思春期が、一番初めに抱いた疑問は「同性愛」という言葉の意味でした。これは「同性」に対する「愛」の問題なのか、それとも「同性」への「性愛」の問題なのか』

 うかつな読み手である私は、後になってようやく、それが伏線であることに気づきました。また、43ページにはこのような記述もあります。

 『「性」以外の残りの「生」の部分で社会生活を営み、仕事もし、人とも話し、家族親戚とも付き合っているのだけれど、実名でのそんな生活の方が「ウソ」に思えて、匿名でのセックスだけが「本当」の自分に思えてくる。それこそが“倒錯”でした。ですが、どうしようもないのです。それが“倒錯”だと気づいたら、あとはクローゼットから出る以外にない』

 こうした伏線を周到に張ってから、著者はまず、カミングアウトがなぜ必要だったのか、という話題に踏み込んでいきます。

 個人的な話で恐縮ですが、1980年代の終盤から90年代前半にかけて、私は「カミングアウト」をHIVに感染した人が社会的に自らの感染を明らかにして名乗り出ることだと思っていました。ジャーナリズムが感染者探しに血道をあげていた時期でもあり、それ以前に同性愛者が直面していた試練と苦闘の歴史にまでは思いが至らなかったのです。

 そのHIV陽性者のカミングアウトも含め、第1部「愛と差別と 言葉で闘うアメリカの記録」では、しばらくHIV/エイズの話題が続きます。当ブログでも以前、読み始めたときの感想を少し書いたので、よかったらご覧ください。

 https://miyatak.hatenablog.com/entry/2021/08/29/234412

 HIV/エイズの流行をニューヨークでフォローする新聞記者として、私と北丸さんには共通の取材体験も多く、本書の前半部には「分かるなあ、そうそう」と共感できる部分、再確認につながる記述がかなりあります。したがって、おそらくは他の方たちよりも、すんなりと読み進むことができたように思います。

 一方で、第2部「友情とLGBTQ+ 内在する私たちの正体」は少し時間がかかりました。単なる感想文ではありますが、報告が遅れ、すいません。ただし、異性愛者のおじさん層(ま、平たくいえば私のことなんだけど)にとってそれは、読書という作業を通し、内在しているはずの何かを確認する、あるいは確認せざるを得ないという困難でスリリングな体験でもあります。次々に繰り出される事例は、北丸さん自身の体験であり、同時代に進行する様々な現象の報告でもあり、これまでの歴史の総括でもあります。ミシェル・フーコーが登場するなど、私には難解な部分もありました。それでも、苦労した分だけ認識が開けていくという同時進行的なドライブ感覚は素晴らしものでした。このことは強調しておきたいと思います。

 自らの体験をベースに国際政治の動向から舞台・映像芸術が生まれる現場まで幅広く、歴史的な事実と内実を検証していく作業が、緩急自在の文章力とも相まって、伝えにくいことを伝えきる。そうした困難な作業に成功している稀有な事例というべきでしょう。

 なかでも、瞠目すべきなのは、ホモセクシュアルとして語られてきた関係に対し、ホモソシアルな視点を示しつつ、「同性」に対する「愛」と「友情」の問題を改めてとらえなおしていく丹念な作業(とその成果としての報告)でした。

 著者によると、ホモソシアルはアメリカのクイア理論家イヴ・セジウィックの『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(2001年)で有名になった概念だということです。ホモソシアルな関係=ホモソシアリティというのは体育会系の学生たちに見られる男同士だけの社会的つながり、紐帯のことで、しばしば女性嫌悪と同性愛嫌悪が伴う・・・。

 おっと、ソシアルな視点が入ると、おじさんとしては、足元がちょっとぐらついてきますね。北丸さんはこうも書いています。

 『ホモソシアルな関係は、男同士でしょっちゅうつるんで、家で待つ妻たちをないがしろにする関係、休みになると家族ほっぽらかしで、やれ草野球だ、やれ草ラグビーだと男同士の集いに精を出す関係に呼び名を与えました』

 草ラグビーか、つらいなあ。いまはコロナでお休みしているけれど、個人的にはかなり痛烈な批判を受けている気もします。

 しかし、ホモソシアルな日常を再認識することは、ヘテロセクシャル異性愛者)であることを疑わないおじさんたちにとって、性的少数者が「性」以外の残りの「生」の部分で息を凝らすように社会生活を営んできたことに思いを致す機会になるかもしれません。少なくともその程度の想像力は持っていたい。

 呼び名を与えられることが認識の変化を促す。それは、ヘテロセクシュアル異性愛者)という呼び名(あり方)を知ったときに、社会的に当然とされていることを疑い、自分とは異なるあり方を認め、同時に自らのあり方も何となく腑に落ちるように位置づけることができる。そんな体験に似ているのかもしれません。

 う~ん、説明しようとすればするほど、北丸さんからは「分かってないね」とお叱りを受けそうな気がしてきました。

 本書の魅力は実は、そうしたおじさん層にも理解が届くようになるべく平易に語ろうという工夫が随所に見られるところにもあります。何かのインタビューで、北丸さん自身が確か、「若い人、そして異性愛者のおじさんには特に読んでほしい」と語っていました。私も、異性愛者のおじさん層にはぜひ、読むことをお勧めしたい。こんな機会を逃す手はないって。