著者と語る『バブル―日本迷走の原点―』 日本記者クラブ会見感想記

 『バブル―日本迷走の原点―』の著者、永野健二さんが3月15日(水)午後、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見を行いました。「著者と語る」と題し、話題の書籍について著者自身からお話をうかがう会見シリーズです。永野さんは日本経済新聞の証券部記者として市場経済の取材を長く続け、その後は経営陣としても活躍された方です。

 現在も日本記者クラブ会員であり、いわば身内の会見といった印象もありましたが、逆に証券部記者時代のライバルだった他社OBも多く、さしもの「伝説の記者」もかなり緊張している様子でした。

 当ブログでは以前に『バブル』の書評(感想文レベルですが)を書いたこともあり、金融の動きやそのまた裏側で繰り広げられる栄枯盛衰の物語にはもちろん興味はあったものの、理解が及ばず、さすがにその分野の元敏腕記者同士の応酬には着いていけません。こうなると黙って聞き役に回るしかありませんね。

 会見はひと言でいえば、「それでもなお、面白かった」と思います。専門的な丁々発止の部分はおくとしても、私にとっては、同じ高校と同じ大学(学部は違いますが)を同じ年に卒業した記者でもあります。仕事での接点はほとんどなかったとはいえ、同時代に新聞記者を続けてきた身としては、何と言うか、ジャーナリズム論が論として語られる少し手前あたりの新鮮かつ上質な素材が、発言として随所にちりばめられていたという印象を受けました。

 日本語に訳しにくい英単語の一つにempowerというのがあります。その語感の曰く言い難い部分も含め、前期高齢記者にとっては大いにempowerかつencourageされる会見でもありました。

 例えば永野さんは会見の冒頭で、「企業の寿命は30年」という言葉を紹介したうえで、30年前のバブルの話に入ります。

 振り返ってみると、「歴史だなあと思うところとまだジャーナリズムだなあと思うところの接点」というあたりの指摘の的確さ。そして、まさしくその歴史とジャーナリズムの境界領域にこそ、いま書くべき課題が存在していることを納得させたうえで、そこからバブルの原因は何か、それが現在にどんな影響をもたらしているのかという話が始まる。「うまいなあ」と思わず感心してしまう展開であります。

 バブルとその崩壊の原因、あるいは日本経済がそこから長期にわたって立ち直れなかった理由については、私が受け売りの説明を繰り返しても理解不足でボロが出るだけですね。会見の様子が日本記者クラブの公式サイトに掲載されているのでそちらをご覧下さい。司会を担当された日本記者クラブ企画委員、軽部謙介さん(時事通信)の報告のほか、You tubeの会見動画も見ることができます。

www.jnpc.or.jp

 稚拙で恐縮ですが、私も記者席から1枚撮りましたので載せておきます。写真左が永野さん、右は軽部さんですね。

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 著書にも書かれていたと思いますが、会見で改めてお話をうかがうと、バブルの体験をきちんと精算しないまま今に至るという日本社会の現状こそが、永野さんに執筆を促した第一の動機であったことが分かります。第二の動機はおそらく、「バブルとは何だったのか」を知りたいという社会的な需要の存在を記者の感覚としてつかんでいたことではないでしょうか。

 会見の中で永野さんは知人の書籍編集者とのやりとりを紹介しています。バブルについて少しずつ書き進めていたころ、永野さんはその編集者から「いまさらバブルでもないでしょう」と言われました。出版界で「天才」と呼ばれる編集者からそんなことを言われれば、私ならすぐに諦めてしまうと思います。

 ところが、永野さんは「いや、それは違うぞ」と答えたそうです。バブルにかかわった人たちが、あの現象の検証もしないままにバタバタと死んでいく時期になった。その30年後の現実の中で「いま逃したらもう書けなくなる」と感じ、同時に「いまなら書ける。書くことがいまにつながる」とも思ったのです。

 少し話がそれますが、つい先日まで私はラグビーの上級コーチ向け指導書の翻訳に取り組んでいました。150ページもある英文のコーチングマニュアルを3カ月かけて何とか訳し終えたところなのですが、世界のトップコーチの教科書でもあるその指導書にはこんなことが書かれていました。

 ラグビーはスペースをつくり、そのスペースにボールを動かすゲームである。ではそのスペースはどこにできるのか。

『スペースが生まれるのは他の選手がそこから動こうとしている場所であり、そこに向かおうとする場所ではない』

 このゴールデンルール(黄金則)をもう少し一般化して、ラグビー以外にも当てはめてみると、みんなの関心が集まっているところではなく、関心を持たれない場所にこそスペースは存在する。それを見抜けるか、見抜けないか。

 注意散漫かもしれませんが、会見の途中でそんなことを思いながら、「単行本をメディアとして使う時代が来たのではないか」とか「人は長い年月がたつと脇が甘くなって秘密だったことも、ついつい話したくなってしまう」といった永野仮説や指摘の数々に一人で、そうそうと納得していました。

 いま必要なものは何か。それは実は多くのメディアが取材に殺到しているところにあるとは限らない。もちろんホットなイシューを追求する行動力は大切です。でも、そこだけにジャーナリズムの関心が集中していいわけでもない。

 もしかすると高齢期ジャーナリズムの需要というか、存在の必然性のようなものがあるとすれば、新たなスペースがいま、見えないところに生まれているのかもしれない。

 こうした観点からすれば、バブルそのものはもう、スペースではなくなっているかもしれません。その証拠は書店に行けば一目瞭然。平台はもう、バブル関連書籍でぎっしり埋め尽くされスペースが見つからない。密集状態ですね。

 ただし、あまり多くの人から関心を持たれていない分野なら、他にもいくらでもあるし、それでもしつこく書き続ける記者がいるとすれば、そこに新たなスペースが生まれてくる(可能性もある)のではないか。

 そうか。「バブルとエイズ対策」。これも書いてみたいなあ・・・かなり強引かつ我田引水気味に密集サイドを突いていくような展開ではありますが、ひそかにそんなempowermentも吸収しながら寡黙な記者は会見場を後にしたのでありました。