4303 「エイズと報道」(過去の資料から) エイズと社会ウエブ版140

 2005年は7月に神戸で第7回アジア・太平洋地域エイズ会議が開かれた年でした。個人的には組織委員会の文化プログラム委員長として、開会式、閉会式、期間中の文化芸術イベントなどを担当し、へとへとになった思い出があります。会議とは直接の関係はありませんが、その年の125日夜、東京都庁と同じ敷地にある都民ホールで、東京都主催のエイズ講演会があり、「エイズと報道」をテーマに講演をお引き受けしました。そのときの報告の草稿です。時間の関係もあり、実際に話した内容とは少し異なる部分がありますが、大意は変わりません。

 

 神戸会議からは来年で10年になります。あの頃、どんなことを考えていたか。読み返してみると、基本的に今とあまり大きく考え方が変わっているわけではありませんが、少し気負いのようなものがあったかもしれません。そんな感想を抱くのは、10年が経過して「結局、たいしたことはできなかったなあ」と自分の非力さを身にしみて感じる年齢になったことも関係しているのかもしれません。世界のHIV感染者数の推計などはその後、国連合同エイズ計画(UNAIDS)が大幅な下方修正をしたので、いまから振り返るとかなり大げさな推計になっていますが、そのままにしておきました。現在のUNAIDSの推計は以下の通りです。

 

HIV陽性者数      3530万人(3220万~3880万人)

年間新規HIV感染者数   230万人(190万~270万人)

年間エイズ関連死者数    160万人(140万~190万人)

 2012年末現在(20139月発表)

 

メルボルンの第20回国際エイズ会議(2014720日~25日)の直前にまた、UNAIDSの新しいデータが発表されるかもしれません。

 

 

エイズと報道」(200512月5日 

 過去4半世紀におよぶエイズの流行は世界で2500万人以上の生命を奪い、いまなお年間490万人が新たにHIVに感染し、310万人がエイズで死亡しています。世界の経済や安全保障、文化、芸術、人々のライフスタイルなどに与えた大きな影響を考えれば、世界史的な現象といってもいいでしょう。そうした中で、ジャーナリズムもまた、エイズの流行によって「重大ではあるが、長期にわたって継続する現象をどのように伝えていくことができるか」という大きな課題に直面しているのではないかと私は思っています。

 

 「ニュース」には、「新しい」という意味の「ニュー」に複数の「s」がついています。新しいもの、珍しいもの、新奇なものはニュースだけど、昨日の新聞はもう単なる新聞紙だといったことも昔からよく言われてきました。確かに良く知らない現象に対しては、情報への要求が高まります。感染症でいうと、最近は高病原性鳥インフルエンザのニュースバリューが高く、エイズはあまり関心をもたれていません。でもそれは、HIV感染が減ったとか、エイズの流行が小さくなったといったことではありません。事態はますます深刻化し、日本ではむしろこれから流行の本格化が心配されています。

 

 あくまで個人的な感想ですが、私はその「重大ではあるが、長期にわたって継続していることから、ニュースの賞味期限を失っているかのような印象が強いHIV/エイズの流行について、どのように伝えていくことができるか」 という課題を解く鍵のひとつは「現場はどこにあるのか」を考えることだと思います。

 

 「事件は現場で起きている」といったって、エイズの流行のような世界史的現象の現場はどこにあるのか。そもそもその現場とはどんなものなのでしょうか。資料1はEH・カーの『歴史とは何か』からの引用です。ちょっと読んでみましょう。

 

 《私たちはしばしば歴史のコースを「進行する行列」として論じます。まあ、この比喩は結構なものでしょう。但し、この比喩に誘惑されて、歴史家が、聳え立つ岩角から四方を見渡す鷲やバルコニーに立つ重要人物のつもりになるようなことがないとしての話であります。それはとんでもないことです。歴史家もまた同じ行列の別の部分に加わってトボトボと歩み続ける、もう一人の影の薄い人物にほかならないのです》

 

 『歴史とは何か』は私が高校生のころには夏休みの課題図書のようなものには必ず入っていました。私はあまり真面目な高校生ではなかったので、つい数年前に初めて読んだのですが、新聞記者もまた、行列の中をとぼとぼと歩く影の薄い人物なのではないかと思いました。現場は何も派手な事件や事故、あるいは内戦や戦争が起きている場所だとは限らない。新聞記者はどこか外から飛んできて、聳え立つ岩角の上から全体像を見渡すコンドルというわけではない。そうだったらどんなにいいだろうかと思うこともありますが、そんなことは到底できません。

 

 ジャーナリストもまた、エイズの流行という世界史的現象に影響を受けて生きるエイズの時代の当事者であることは免れない。そんなことを考え、エイズの流行と闘う日米のNGONPOの活動にも、新聞記者であることを示した上で、加えてもらうようになりました。そうすると、エイズとの闘いの現場というのは社会の実にさまざまな場所にあり、それは見ようとしないと、見えないものだということが分かってきます。もちろん、すべてを知ることなどは到底、できません。また、取材のためにという動機ではなかったのですが、そうした経験を通し、結果として報道する内容は広がっていったのではないかと思います。

 

 もうひとつのキーワードは「国内と国外の情報のギャップをどう埋めていくか」ということです。資料2では、世界エイズデーと世界エイズキャンペーンについて簡単にまとめてみました。2005年と2006年のキャンペーンのテーマは《ストップ・エイズ。約束を果たそう》です。2001年に国連エイズ特別総会が開かれ、コミットメント宣言が採択されました。世界のエイズとの闘いはその宣言に沿って進められているのかどうか。「約束を果たそう」というメッセージには、いま世界が直面しているエイズ対策の困難さも、世界中の人々の期待も読み取ることができます。

 

 ところが、日本の世界エイズデーの標語は《エイズ…あなたは「関係ない」と思っていませんか?》 です。一生懸命にこの標語を考えた方には申し訳ないのですが、「だから、何だ」という感じですね。 資料2の一番下にあるHATプロジェクトというのは、世界の動きを伝えるために英語の文献を日本語に訳してブログで公開しようというプロジェクトです。私も理事の一人であるAIDS& Society研究会議という特定非営利活動法人が細々とやっているプロジェクトですが、姿勢だけは示しておきたいというところでしょうか。

 

 3番目に「バルナラブルな人々」への想像力を失わないということがあります。バルナラブルは英語で「脆弱な」といった意味ですが、なかなか訳しにくい単語のひとつです。慶応大学の樽井正義教授は「社会的に弱い立場の人々」という訳語を使っていました。これはうまい訳だなと思います。社会的な偏見もあって、HIV感染の高いリスクにさらされ、感染しても治療や支援が受けにくい人々ですね。そうしたバルナラブルな人々が、安心して治療を受け、自らHIV感染の予防行動を取るには、社会的な支援が必要で、結局はそれが社会全体の予防対策にも有効な手段だという考え方です。

 

エイズ対策の国際的な会議では、バルナラブルな人々について、たとえば男性同性愛者、セックスワーカー、薬物注射使用者、外国からの移住労働者といった人たちであるといったことがしばしば指摘されています。世界のエイズ対策はこうしたバルナラブルな人々を助けようという考え方が主流になのですが、ここまで来るには長い経過がありました。また、いまでも世界中のすべての国で、そうすんなりと受け入れられているわけではありません。

 

 資料3はランディ・シルツの『そしてエイズは蔓延した』からの引用です。これも読んでみます。

 

 《人々が死んでも、誰も注意を払わなかった。マスメディアが同性愛者に対する記事を書きたがらず、とくにゲイの性行動に関する記事を敬遠したからである。新聞やテレビはこの病気についての議論を極力避け、その間に死亡者が無視できないほど増えて、犠牲者は社会ののけ者だけではなくなった。マスメディアが国民の守護者の役割をはたさないので、国民一人一人が自分なりにエイズに対処するほかなかった-つまり何もできなかったのである》 

 

 シルツはサンフランシスコ・クロニクル紙の記者で、エイズの流行の初期には、エイズ報道の分野で最も有名なジャーナリストでした。この本で彼が描いているのは1980年代前半の米国の様子です。治療の提供と支援こそが最大の予防対策でもあるという考え方は、こうした苦い経験を経て生まれてきたのですが、いま日本国内の状態を考えると、シルツが指摘した80年代前半の米国の失敗を繰り返しているのではないかという印象を受けます。

 

 資料4は19946月にニューヨークで開かれたストーンウォール暴動25周年の行進について書いた詩です。1969年にニューヨークのグリニッジビレッジで、ストーンウォールインというゲイバーの手入れがあり、それがきっかけになって何日間か続く暴動が起きました。その25周年に主催者発表100万人の大行進があったのです。

 

 そのとき、「エイズ25周年にはまた、集まるのかい」とテレビでコメントしているエイズアクティビストがいました。彼はニューヨークのエイズ専門誌の記者でもあったのですが、エイズ25周年を迎える頃にはみんな死んじゃうだろうという怒りと皮肉を込めた発言でした。実際には、その2年ほど後から多剤併用療法が普及し、少なくとも先進国では10年たったらみんな死んでいるだろうといった状態ではなくなっています。

 

 米国でエイズの最初の症例が公式に報告されたのは198165日でした。来年6月には、ニューヨークのアクティビストですら、自分が死んだ後の話だろうと思っていたエイズ25周年を迎えます。この間の治療の進歩によってHIVに感染した人が長く生きていくことが期待できるようになりましたが、それでもなお、地球規模のHIV/エイズの流行は深刻化しています。途上国を中心に年間で310万人もの人がエイズで亡くなっています。先進国ですら感染は拡大しています。

 

 それでも、社会的な関心が低いと、報道の機会は少なくなってしまいます。どうすればHIV/エイズの流行を持続的に報じていくことができるのか。あれこれ工夫はしているつもりですが、皆さんも、できればエイズについて書いた本の一冊も買っていただき、図書館で借りていただくのでもいいですが、とにかく、エイズに対して無関心ではありませんよという小さな意思表示をしていただければ幸いです。

 

 

資料1.

《私たちはしばしば歴史のコースを「進行する行列」として論じます。まあ、この比喩は結構なものでしょう。但し、この比喩に誘惑されて、歴史家が、聳え立つ岩角から四方を見渡す鷲やバルコニーに立つ重要人物のつもりになるようなことがないとしての話であります。それはとんでもないことです。歴史家もまた同じ行列の別の部分に加わってトボトボと歩み続ける、もう一人の影の薄い人物にほかならないのです》    E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書)より

 

エドワード・ハレット・カー(18921982)   英外交官、国際政治学、歴史学者。1916年に英国外務省に入り、第一次大戦後のパリ講和会議1919年)に英国代表団の随員として参加。第2次大戦では情報省の外国部長やタイムズ紙の論説委員を務めた。戦後はロシア革命を研究。著書に『危機の20年』ほか。

 

資料2

世界エイズキャンペーンについて

1988年  世界保健機関WHO121日を世界エイズデーに指定。

1997年  年間を通した世界エイズキャンペーン発足。19972004年は国連機関、政府、HIV/エイズ対策の市民社会組織との緩やかな協力のもとにUNAIDSがキャンペーンのまとめ役を担う。

2004   世界エイズキャンペーンの運営主体がUNAIDSからNGOに移行。

 

20052006年のキャンペーンテーマ Stop AIDS. Keep the Promise.

なぜ「ストップ・エイズ。約束を果たそう」なのか

「ストップ・エイズ。約束を果たそう」は2003年の協議で候補になった。当時は「エイズとの闘いに個人が責任を持とう」「アカウンタビリティ(説明責任)」など他にも候補があり、最終的に「女性とエイズ」がテーマに選ばれている。新たに発足した世界運営委員会は今回、コミットメント宣言とその後の政治的な約束の履行を求めることを視野に「ストップ・エイズ。約束を果たそう」をスローガンに選んだ。

2001年の国連エイズ特別総会で、各国元首、政府代表がコミットメント宣言に合意したことは、エイズとの闘いの大きな転換点だった。宣言は各国指導者が危機における指導力を発揮し、事態を正視して行動する必要があることをメッセージとして示している。エイズとの闘いは、世界中で多数の国が以前から約束しているが、地球規模の行動が必要な地球規模の危機としてエイズの流行を捉えたのは初めてだった。

コミットメント宣言は、予防キャンペーン、偏見の解消、保健基盤の確立、必要な資金の供給、治療とケアの確保、HIV陽性者の尊重など、各国が実行すべき約束を列挙している。約束の多くに締め切りが示され、宣言は政府、非政府の両方においてエイズの流行と闘うための行動、支援、資金を確保する重要な手段となっている。

     Stop AIDS. Keep the Promise. World AIDS Campaign 2005 and Beyondより   

     日本語仮訳はHATプロジェクトのブログ http://asajp.at.webry.info/ から引用

 

資料3.

《人々が死んでも、誰も注意を払わなかった。マスメディアが同性愛者に対する記事を書きたがらず、とくにゲイの性行動に関する記事を敬遠したからである。新聞やテレビはこの病気についての議論を極力避け、その間に死亡者が無視できないほど増えて、犠牲者は社会ののけ者だけではなくなった。マスメディアが国民の守護者の役割をはたさないので、国民一人一人が自分なりにエイズに対処するほかなかった-つまり何もできなかったのである》

ランディ・シルツ『そしてエイズは蔓延した』(草思社)より

 

ランディ・シルツ   サンフランシスコ・クロニクル紙記者。1982年からエイズの取材を続ける。87年の著書『そしてエイズは蔓延した』は全米ベストセラーになる。85年に自らのHIV感染を知り、93年に公表。94216日、エイズによる合併症のためサンフランシスコの自宅で死去。

 

 

資料4.

「石の壁の夏」

ようこそニューヨークへ

テレビカメラに向かって

サングラスの男がいった

石の壁と呼ばれるビレッジのバーで

女装のクイーンが

制服警官の向こうずねを

思い切り蹴っ飛ばしてから

二十五年が過ぎていた

 

ようこそニューヨークへ

世界の首都へ

六月の空は青く晴れ渡り

地上では

男たちが胸の筋肉を盛り上げ

女たちもTシャツを脱いで

日に焼けた乳房を誇示しながら

石の壁を通り過ぎていく

男と男、女と女

そして時には男と女

クリストファー通りの

歩道を埋める人の波の中で

わっ、スーパーに入ったみたい

目移りがする

と僕の友人は声を弾ませた

この町で最も尊敬されない存在である

ヘテロセクシュアル日本人すけべおじさん

と化した僕には

単なる上半身裸の男の人ごみにしか

見えなかったけれど

花の飾られたアパートの窓という窓から

虹の色の旗が六月の風になびくと

心はやはり浮き立たずにはいられない

 

ようこそニューヨークへ

ストーンウォール暴動二十五周年

日本からきた若者たちは

カタカタと下駄を踏み鳴らして

国連からセントラルパークまで

主催者発表百万人の

ゲイとレズビアンの行進に加わり

僕はつかず離れず

慎重に距離をはかりながら

六月の光の中を歩いた

ファッション技術大学では

同性愛者の世界会議が開かれ

日本のゲイアクティビストが

同じ年の八月

横浜で開かれるエイズ会議への

参加を呼びかけた

五輪メダリストのルゲイニス選手は

ゲイであることを公表したけれど

HIVに感染していることは黙っていたので

くるりと一回転すると

小さな水しぶきをあげて

記憶の底に消えていった

 

ようこそニューヨークへ

一九九四年六月二十六日

だれもが心浮き立つ夏の日

テレビカメラに向かって

サングラスの男がいった

エイズ二十五周年に

また集まりますか