HIVとオリンピック・パラリンピック6 『(いまなお)政治的な課題』

 

◆(いまなお)政治的な課題

 HIV/エイズ分野で世界最大の専門家組織である国際エイズ学会(IAS)は1988年に創設された。ソウル五輪の選手村で初めてコンドームが配られ、121日が世界エイズデーになった年でもある。

 ベルリンにはまだ東西ドイツの分断を象徴する分厚い壁が存在し、ソ連という超大国の消滅が間近に迫っているなどということは、世界中のほとんどの人にとって思ってもみないことだった。

日本国内ではバブルがはじける寸前だった。年が明け1989年がスタートして1週間たつと「昭和」が終わり、時代は「平成」に移行した。新元号を発表し、若者から「平成おじさん」などと呼ばれた官房長官が、後に首相に就任するなどということもまた、予想しにくかった。

近未来の世界がどう変わっていくのか、不確実さが増していく。さまざまなエビデンスを組み合わせていけば、ある程度の予想はできそうだが、現実はそうしたエビデンスを大きく裏切って展開することもしばしばある。そんな時代だった。

だが、HIV/エイズの分野で言えば、効果的な抗レトロウイルス療法の開発は1996年まで待たなければならず、西側の先進諸国でも数多くの人がエイズで亡くなり、エイズ診療に携わる医療従事者は自らの非力をかみしめなければならなかった。いわば、治療に関しては深い闇の中を歩くような時期だったのだが、それでも、いやそれだからこそ、HIV/エイズの流行という世界史的な危機と闘うための試みが様々な分野で進められ、それを支える「政治の意思」の重要性もまた指摘されていた。停滞はまた、大いなる変化を促していたのだ。

 そして、創設30年の節目を迎えた2018年春、IASは『エイズは(いまなお)政治的課題である』と題した年次書簡を発表している。

(注13 IAS年次書簡2018AIDSは(いまなお)政治的課題である』

 http://api-net.jfap.or.jp/status/world.html#a20180510

 

抗レトロウイルス治療(ART)の進歩により、いまはHIVに感染した人が、感染していない人と同じくらい長く生きることが期待できるようになった。さらにARTには、感染している人から他の人へのHIV感染を防ぐ効果があることも確認され、2010年代に入ると、「予防としての治療(T as P)」が予防手段の新たな選択肢りすて注目されるようにもなった

2018年には、治療を続け『体内のウイルス量が検出限界値以下に下がればHIV陽性者から他の人にHIVが性感染することはないというエビデンスはいまや明白』とUNAIDSも指摘している。

(注14 UNAIDSUndetectable = Untransmittable

 http://api-net.jfap.or.jp/status/world.html#a20180802

 

 20166月にニューヨークで開かれた『エイズ流行終結に関する国連ハイレベル会合』では政治宣言が採択され、2030年までに『公衆衛生上の脅威としてのエイズ流行終結』を目指すことが国際社会の共通目標となった。

(注15)国連総会ハイレベル会合2016政治宣言

http://api-net.jfap.or.jp/status/world.html#UN2016

 

T as Pへの期待はそれほど大きく、UNAIDSは流行終結の前提条件として、2020年末までにケアカスケードの90-90-90ターゲットを達成することを当面の目標として掲げている。

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UNAIDSの推定では、90-90-90が達成すれば、年間の新規HIV感染者数は世界全体で50万人以下に減るはずだった。最初に90-90-90ターゲットを提唱した2014年当時の4分の1である。

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だが、現実は推定通りには進んでいない。UNAIDSのファクトシートによると、2017年末時点の世界のHIV陽性者数は推定3690万人で、その6割近い2170万人に抗レトロウイルス治療へのアクセスが確保されている。

(注16 Global HIV & AIDS statistics — 2018 fact sheet 

www.unaids.org

 

それでも2017年の年間新規感染者数は推定180万人で、2014年当時より減ってはいるが、あと3年で50万人以下となるのは困難だろう。

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治療の普及は極めて重要だし、治療による感染の予防効果も重視する必要がある。だが、それだけで「公衆衛生上の脅威としてのエイズの流行」を終結させることはできない。

HIV/エイズの流行は世界中で同じように広がっているわけではなく、地域や条件によって流行の姿は異なる。したがって、予防対策も単一ではなく、以前からある方法と医学の進歩に基づく新たな選択肢を組み合わせ、より効果を高めていくコンビネーション予防の考え方が必要になる。

その選択肢は、治療の普及や抗レトロウイルス薬の予防的な投与に加え、コンドーム使用を含むセーファーセックス、薬物使用者へのハームリダクション(被害軽減策)、感染のリスクに曝されやすい人口集団への政策的支援、若年層への性教育、互いの存在を認める人権教育、男性器包皮切除など多様である。そして、社会的に弱い立場の人口集団を予防や治療から遠ざけ、効果的な対策の妨げとなる法律や制度があれば、それを改めていくことが再び重視されるようになっている。

エイズは(いまなお)政治的課題である』という簡潔なメッセージを回りくどく説明すればそういうことだろう。そこにはソチ五輪の苦い教訓も反映されている。だが、それだけではない。ロシアとともに米国もまた「政治的課題」の当事者なのだ。