4229 いまもなお世界が追いかける背中

 

 当コラムの3つの主要なコンテンツのうち、ラグビーエイズ対策を通してマンデラ氏の功績を振り返ってみました。鎌倉との接点は・・・なかなか見つかりません。宿題として残ってしまいました。本日のビジネスアイ紙に掲載されたコラムです。

 

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いまもなお世界が追いかける背中

http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/131217/cpd1312170501001-n1.htm

 

 南アフリカネルソン・マンデラ元大統領の追悼式典が10日、ヨハネスブルクのサッカーシティ・スタジアムで開かれた。会場は収容人員9万4700人。2010年サッカーW杯で決勝戦の舞台となった大規模スタジアムである。死去から5日後の式典に世界の要人が続々と集まる。生半可な施設では、とてもさばききれない巨大式典だったということだろう。

 

 マンデラ氏は27年も獄中にあってアパルトヘイト(人種隔離政策)と闘い続け、なおかつ解放後には国民に人種和解を呼びかけている。対立を乗り越えたその和解の象徴は、大統領時代の1995年に開催された第3回ラグビーW杯だろう。人種差別政策のためW杯に出場できなかった南アが初参加し、しかも自国開催で初優勝を飾っている。その経緯は後にクリント・イーストウッド監督の『インビクタス/負けざる者たち』で映画化されているので、ご存じの方も多いだろう。

 

 10年サッカーW杯では、すでに政治家を引退し、健康状態も思わしくなかったマンデラ氏が、サッカーシティ・スタジアムの閉会式には出席している。マディバの愛称で親しまれた指導者にとって、それは公に姿を現す最後の機会となった。

 

 マンデラ氏の獄中からの解放には、冷戦の終結という歴史の変化が大きく影響していたに違いない。その解放から20年の間にラグビーとサッカーという世界の2大スポーツのW杯が、ともに南アで開かれていることは、マンデラ氏の人種和解の呼びかけに世界が深く感動したことの表れではないか。スタジアムはその意味で、規模だけでなく、歴史のイコンとしても、世界の要人と南アの国民がともにマンデラ氏を送るのにふさわしい場だったと言うべきだろう。

 

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 マンデラ氏は晩年、エイズ対策に力を注いだ。アフリカの指導者には必ずしも珍しいことではないのだが、彼もまた息子の一人をエイズで失っている。

 

 だから熱心だったのだとは言わない。

 

 ただし、彼のメッセージからは常に、エイズの原因となるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した人、および感染の高いリスクにさらされている人たちへの温かなまなざしが感じられた。流行の最先端の現場で最もよく闘っているそれらの人たちを支える意思をにじませてもいた。そのことは強調しておきたい。

 

 個人的な話で恐縮だが、私は一度だけマンデラ氏に1メートルほどの距離に接近したことがある。04年7月14日、タイのバンコクで開かれていた第15回国際エイズ会議の会場で記者会見があったからだ。

 

 その2日後の閉会式にも彼は登壇し、U2のボノ、クイーンのブライアン・メイといった著名なミュージシャンとともに展開している「46664」キャンペーンについて説明した。数字は獄中にあった当時、自らに割り当てられた囚人番号である。

 

 マンデラ氏は「人を囚人番号に変えることで、人種差別体制がいかに人間性を奪おうとしたか」について語った上で、「世界は私たちのことを忘れていないという認識に支えられ、私は生き延びました。エイズに苦しむ何百万もの人がいることを忘れないでほしい。その人たちを単なる数字に変えないでほしい」と呼びかけた。

 

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 今年12月1日、マンデラ氏と同じくノーベル平和賞の受賞者であるアウンサン・スー・チーさんは、国連合同エイズ計画(UNAIDS)のミシェル・シデベ事務局長とともにオーストラリアのメルボルン世界エイズデー式典に出席し、「差別ゼロキャンペーン」の開始を宣言した。来年3月1日が第1回差別ゼロデーになるという。

 

 UNAIDSはこれまでHIV新規感染ゼロ、エイズにまつわる差別・偏見ゼロ、エイズ関連の死亡ゼロの「3つのゼロ」を将来ビジョンとして掲げてきた。

 

 しかし、HIV陽性者やHIV感染の高いリスクにさらされている人たちへの社会的な差別や偏見が解消されなければ、医学研究にいくら力を入れても、新規感染や死亡をゼロにはできない。マンデラ氏の背中を世界は今も追いかけている。エイズ対策を取材する記記者として、今年はそんな思いを再確認する年の瀬となった。