読後感想文『歴史に生きる-国連広報官の軌跡』

 冷戦後の多難な時代にニューヨークの国連本部や世界の紛争地で、国連の広報官として活躍された上智大学の植木安弘教授が新著『歴史に生きる-国連広報官の軌跡』を出版された。

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b303179.html

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 私は19932月から968月まで3年半にわたって産経新聞のニューヨーク支局で国連を担当し、PKOのあり方などについて植木さんから教えを乞うことも多かった。

 新聞記者にとって広報官は取材の駆け引きという点での好敵手であり、同時に取材対象となる現実へのより深い理解を得るためのメンター(指導教官)のような存在でもある。同じ時間を異なる立場で共有しつつ、世界の現実をよりよく伝えるという意味では、少し甘いかもしれないが同志的な連帯感もある。

個人的には記者としてすでに第一線を引いたいま、本書を読みながら「ああ、ずいぶん教えてもらえなかったことがあったなあ」と自らの非力に少々がっかりしつつ、それでも連帯感の成立を可能にする誠実な広報官に恵まれたことに、改めてささやかな感謝をささげたい気持ちにもなった。植木さんの話をうかがうことで、事実の認識や評価において、現実を大きく外してしまうような報道をすることは少なくともなかったと思うからだ。

本書は副題に「グローバルキャリアのすすめ」とあるように、これから国際公務員として国連で働くことを目指す若い人たちの就活テキストとして読むこともできる。巻頭には上智大学の学長さんが『国際協力・国際機関人材育成シリーズ第二作出版にあたって』という一文を寄せられているところから考えると、出版の主要な目的はそちらの方にあるのかもしれない。

ただし、個人的に国連の職員として活躍しようなどという気持ちはさらさらない私のような人間にとっても、非常に興味深く読める。冷戦後の世界の現場を裏舞台まで含め、具体的事例に即して報告した貴重な国際現代史レポートになっているからだ。広報官は第一線の新聞記者以上に練達の文章を書くことができる優秀なライターであるということも改めて認識できた。

植木さんに最初にお目にかかったのは確か1993年の3月か4月のことだった。当時、国連担当の日本の報道機関の駐在員は個別の取材とは別に、2週間に1回ぐらい、日本政府国連代表部大使のブリーフィングを共同で受ける機会があった。冷戦が終わり、平和な世界が訪れるという期待に反して、世界は地域紛争の時代へと突入していた。それと同時にその混とんとした世界に新たな秩序を生み出す担い手として、国連の役割に期待がかかっていた時期でもある。日本の報道機関としては、国連の安保理改革、とりわけ日本が安保理常任理事国になることができるかどうかということも大きな取材テーマの一つだった。植木さんはそのころ、一時的に国連から出て、日本政府代表部に専門調査官として勤務されていた。大使の傍らで静かにメモを取る姿はどこか外務省の外交官たちとは異質の存在のようにも見えた。後になって気が付くことだが、その異質なたたずまいこそが、多くの記者から信頼を寄せられるようになる秘密だったのかもしれない。

 カンボジア、旧ユーゴスラビアソマリアなど世界の紛争地域に派遣されるPKOの役割にも期待が高まり、多機能型PKOという新たなコンセプトも生まれた。その役割に限界があることはそれほど長い時間がたたないうちに明らかになるのだが、それでも一定の条件に恵まれた局面においては大きな成果を上げることもあった。

その大きな成功事例の一つが、植木さんも政務官兼副報道官として加わった国連東チモール・ミッション(UNAMET)だろう。インドネシア支配下にあった東チモールは、住民投票を経て2002年に独立を果たす。その詳細な経緯は本書の第5章「東チモール独立へ」を読んでいただくとして、植木さんはその章の最終部分で次のように書いている。

 『この東チモールの独立は、インドネシアにとっては苦い療法ではあったが、歴史的な汚点を一掃し、国際社会からの批判を抜け出して、インドネシアの国家としての威厳を回復する契機となったといえる。六〇年以上経っても未だ解決していない中東和平問題と比較してみると、東チモールの独立は、一つの紛争解決の方法を示唆しているのかも知れない』

 それぞれの紛争には個々の事情が複雑に絡み合っていて、軽々な比較はできない。書き方が非常に控え目なのはおそらく、植木さんが現場の体験を通し、このことを肌身に染みて感じ取っているからだろう。それでもあえて、こう付け加える。

 『この東チモールの経験から学ぶことは、歴史の動きをどう判断するかの重要性、それから歴史を動かすのは組織の中の個人でもあり、その個人がどのような決断をするかによって歴史も変わりうるということである』

 そして、突出した指導者の決断と同時に『その周りで活躍した多くの人と関係国の総合的な努力によって、実現不可能と思われたことが可能になった』という。植木さん自身、いまも『その周りで活躍した多くの人』の一人としての誇りを心の中に持ち続けているに違いない。