読みながらにしと笑う  『窓の向こうのガーシュイン』

 早産だったから小さい体のまま生まれた。体重は出生児の標準の三分の一だった。それでも両親は保育器に入れることを拒んだ。

 呼吸はお線香から上る煙のように頼りなく・・・。

 赤ちゃんはそのように描写されている。お線香だなんて、まるで死を予言しているような書きぶりではないか。

 今年の本屋大賞を受賞した宮下奈都さんはいま最も注目されている作家の一人だろう。ここで個人的な話を持ち出してもしょうがないのだが、私はまったく面識はありません。これまでに作品を読んだこともありません。で、受賞作はとりあえず文庫になるまで待つとして、何かほかに適当な作品はないかと思い、書店をのぞいた。たくさん出ていますねえ。すいません、まったく存じ上げていませんでした。したがって、どれを選んでいいのか・・・。

 最も新しく文庫化された作品が本書のようだった。試しに読んでみるかと買い求めたとたん、この禍々しい書き出し。あれ? 失敗したかなと思ったら、場面はいきなり転換し、19年後の物語が始まった。うまいなあ、この入り方。ストーリーを紹介しては未読の方のご迷惑になるだろうから、そのあたりは遠慮しておこう。私がお伝えしたいのは、宮下さんという作家の言葉使いの見事さである。

 たとえば擬音語や擬態語の独特かつ的確な起用。少しピックアップしてみよう。

 『こういう棚を見ると、すんすんと澄んだ神聖な気持ちになる』

 そうか、すんすんか。

 『犯人は私を見て、にしと笑う』

 にやでもなく、にたですらもなく、にしである。私も思わず、にし、と笑ったね。不敵な笑みというのともちょっと違う。でも、にこにこのお人好し感はまったくない。「越後屋、おぬしも相当、ワルじゃの」「いえ、お奉行様こそ」。そんなときに交わされる笑いに近いかもしれないけれど、違うなあ。つまり、にし、なんだよねと妙に説得力がある。

 『きゅるきゅるきゅるっと時間が巻き戻しされたような錯覚が起こった』
 
 ビデオの巻き戻し感覚かな。過去へと思いが飛んで行く。こういう文章を読むと、かなり幸せな気分になる。言葉の持つイメージの喚起力が高い。読み進めていくうちにますます、そんなことを感じた。

 紅茶の茶葉がポットの中で上下を繰り返す。それを先生は佐古さんに「ダンシング」と説明する。しばらくすると間違えて教えていたことも忘れてしまう。本当は「ジャンピング」なのに・・・。

 そんな小さなエピソードを読みながら、私はついつい「ダンシング、いいねえ」などと思ってしまう。そっちの方がいい。ローリングストーンズの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」ではなく、映画で観た「ウッドストック」の冒頭、キャンドヒートの曲に乗ってシルエットの人たちが踊る。あのダンシングが茶葉にそっくりではないか。

 ウグイスは遠く、ホトトギスは近い。本書の記述に少し触発されて、そんなことを考える。どちらも実はさえずる姿を見たわけではない。ただし、市街地と山の端が指を広げた手袋のように入り組んでいる鎌倉の町を歩いていると。鳴き声が聞こえてくる。本当はウグイスの方が驚くほど近い場所から聞こえてくる。ホトトギスは遠くかすかにといいますか。

 すんすんと耳を澄ませて、ほら、あれがホトトギス・・・。そういえばウグイスとは鳴き方が違いますねえ。そんな感じである。メジロとウグイスとホトトギスの違いなどまったく分からなかったし、気にもしなかったなあと若い頃を思い出す。そもそも川底が透き通って見える川が町の真ん中を流れているだなんて、濁った運河ばかりの町で育った少年には信じられないことだ。でも、なつかしい。『窓の向こうのガーシュイン』には、おじさん層にすらそんな感慨を抱かせる何かがある。記憶としては先生の方にずっと近いのにね。