シェア=国際保健協力市民の会代表理事の本田徹さんから新著『世界の医療の現場から プライマリ・ヘルス・ケアとSDGsの社会を』を送っていただきました。本田さんはNHKの『プロフェッショナル-仕事の流儀』にも登場した名医なので、ご存知の方も多いでしょうね。
http://rengo-shuppan.on.coocan.jp/
さっそく読んで感想を・・・と思ったのですが、もともと読書スピードが遅いうえ、貧乏暇なしといいますか、あれやこれやと雑事が重なり、読み通すのに一か月近くかかってしまいました。面目ない。
難解だから時間がかかったのではなく、高度に専門的な分野に話が及ぶ時でも、本書は分かりやすく丁寧に説明しています。私のような遅読家を除けば、すらすらと読むことができ、それでも読んだ後にはずっしりとした充実感が残る。そんな本でした。
とくに私の印象に残ったのは、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)に関する第三章です。保健分野では最近、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)という言葉もしばしば登場します。HIV/エイズ対策でも、UHCとの統合が課題の一つになっています。
でも、要するにPHCとか、UHCとかって何? 日本語では何というの?と聞かれると、私などはうまく答えられず、中身はよく分からないけれど、プライマリ・ヘルス・ケアやユニバーサル・ヘルス・カバレッジをカタカナのまま使ってごまかしてしまうことがよくあります。
本書では1978年のアルマ・アタ宣言にさかのぼって説明しています。同年9月に旧ソ連・カザフスタン共和国のアルマ・アタ(現アルマトイ)で開かれた第1回プライマリ・ヘルス・ケアに関する国際会議で採択された宣言です。
『プライマリ・ヘルス・ケアが生まれた背景には、当時も今も人類社会に存在する健康の格差・不平等をなんとか解決していきたいという、WHO(世界保健機関)のマーラー事務局長たちの強い願いと意志がありました』と本田さんは書いています。
宣言の第六条のPHCとは、という部分も紹介されています。
『実践的で、科学的に有効で、社会に受容されうる手段と技術に基づいた、欠くことのできない保健活動のことである』
『国家の保健システムの中心的機能と主要な部分を構成するが、保健システムだけでなく、地域社会の全体的な社会経済開発の一部でもある』
あら?ちょっと難解っぽくなってきましたか。私がまとめようとすると、かえって分かりにくくなってしまいますね。本田さんは同じ部分を引用しつつ、ああ、そういうことだったのかと納得できるように、実に分かりやすく話を運んでいきます。名医であり、かつ名コミュニケーターであります。両方の資質は補完する面があるのかもしれません(人によるとは思いますが)。
95ページ辺りに出てくるので、読んでもらった方がよさそうですね。もうちょっと追加しておきましょう。
『PHCが医療における公平性、近接性、住民の健康への権利を保障する仕組みとして機能するために、WHOは四つの原則を掲げています』
(1) 住民のニーズに基づく、医療サービスへのアクセスの普遍的保障(UHC)
(2) 社会正義の実現に向けた健康における公正(Health Equity)
(3) 住民の参加・自己決定
(4) 地域資源の有効活用と多分野間の協力
UHCはここで出てくるわけですね。4原則を改めて見直すと、これはHIV/エイズ対策が血と汗と涙とともに、実現しようとしてきたものではないですか。
アルマ・アタ宣言は1978年、そして、エイズの最初の症例報告が米国で公表されたのが1981年。そうか、HIV/エイズの流行という試練に立ち向かうための最も重要な考え方は3年前に宣言というかたちで用意されていた。これはすごいことだと私は思います。
水平の保健基盤強化か、垂直の個別疾病対策かという一時期、盛り上がった議論は、PHCをもっぱら医療の課題としてしか見てこなかった医療界の認識に引きずられてしまったためだったのかもしれません。
最近はHIV/エイズ対策の分野で検査や治療の普及をはかるためにコミュニティ・ヘルスワーカーに大幅に権限を委譲しようという動きが国際的には強くなっています。
先月公表された国連事務総長のHIV/エイズ対策の進捗状況に関する報告書でも、『勧告2:90-90-90ターゲット達成に向けてHIV検査の多様化を進め、患者に合わせた保健医療ケアを提供する』の中で次のような記述があります。
『保健医療分野の人材が不足しているところでは、医師から看護師へ、そして看護師からコミュニティ・ヘルスワーカーへの職務権限の移譲も含め、患者に合わせた保健医療ケアを提供できる体制を整えることで、治療の普及率が高まることが示されている』
患者に合わせた保健医療ケアの提供というのは、英文では『differentiate the delivery of health care』となっています。古くて新しい課題なんだなあと改めて感じました。
本田さんはさらに『プライマリ・ヘルス・ケアは、東西冷戦と中ソ対立の狭間のわずかな緊張緩和の時期に生まれた奇跡だったとも言えます』と書いています。その奇跡の時期は翌年には消えてしまい、やがてエイズの流行が広がっていく。80年代、90年代にHIV感染がパンデミックレベルに拡大してしまった背景要因の一つは、PHCが当時、機能できずに終わったことだったのかもしれません。
もう一つ、『日本ではついにPHCはそのままの言葉と意味では伝わらず、ヘルスを除いた「プライマリ・ケア」という言葉で流布するようになりました』という重要な指摘も本書にはあります。105ページですね。国際的にはいま、UHCの先駆者として評価される日本ですが、この指摘の背景にある課題も考えておかないと、ご自慢の医療体制も、もたなくなってしまうのかもしれません。Differentiateの課題は途上国だけが抱えているというわけではなさそうです。
なお、この本の刊行は、連合出版にとって最後の仕事になるかもしれないというお話も人づてにうかがいました。素晴らしい本を世に出し続けてきた小さな、そして良心的な出版社が店をたたんでしまうのだとしたら、それは残念なことですが、発行者の八尾正博さんには本当にご苦労様でしたと申し上げたい。そして、私も実はHIV/エイズ関係の本を出していただいたことがあるので、ありがとうございましたと心からお礼を申し上げます。