世界のHIV/エイズ対策はいま、2020年の90-90-90ターゲット達成を当面の戦略目標にしています。
(1)HIVに感染している人の90%が検査を受けて自らの感染を知り、
(2)感染を知った人の90%が抗レトロウイルス治療を始め、
(3)さらにその90%は治療を継続して体内のHIV量を低く抑えられるようになる。
この状態が実現できれば、計算上90×90×90で、HIV陽性者の約73%は、自ら健康状態を良好に保てるだけでなく、その人から他の人にHIVが感染するリスクもほぼゼロになる。これが「予防としての治療」(T as P)の最も期待される効果です。
90-90-90の先にはさらに「公衆衛生上の脅威としてのエイズ流行」を2030年までに終結に導くという大目標があり、そのためには「T as P」のハードルを95-95-95に引き上げる必要があるというのも一応、国際的な共通理解となっています。
では、95-95-95が達成できると、流行はどの程度まで抑えられるのか。
米国の研究グループの数学モデルによる最近の試算について、エイズ対策関連の会合で教えていただきました。立ち話程度だったので、数字については後で確認したものを使っていますが、2030年に95-95-95が実現すると(そして、その前提として2020年に90-90-90が達成できていると)世界はこうなるそうです。
・抗レトロウイルス治療の普及が現在のレベルのままだと、2015年から35年の間に世界全体で4900万人[4400万~5800万人]が新たにHIVに感染する。
・UNAIDSの95-95-95ターゲットが実現できれば、このうちの2500万人[2000万~3300万人]の新規感染を防ぐことができる。
・それでもなお、2400万もの人がHIVに感染することになるが、2020年に50%の効果があるワクチンを導入し、その効果を70%まで徐々に引き上げていけば、さらに630万人[480万~870万人]の感染が防げる。
この試算が言いたかったのは「したがって、HIVに関して言えば50%の効果しか見込めないワクチンであっても実用化する必然性が十分にある」ということでしょう。
確かにワクチン開発は必要です。ただし、この試算については教えていただいたときにまず私が感じたのは「あれ? T as Pって喧伝されているほど効果があるわけではないんですね」ということでした。
だってそうでしょ。仮に2030年に95-95-95が実現するような目いっぱいの成果があがったとしても、今後20年間で2400万人もの新規感染者が予想される。平均すると、年間で100万人以上です。
UNAIDSの説明では、90-90-90が達成できれば2020年の年間新規感染者数は世界で50万人に減少する。そして95-95-95が2030年に実現すれば新規感染者数は20万人以下になるということでした。
このため、昨年6月の『エイズ終結に関する国連総会ハイレベル会合』で採択された『HIV とエイズに関する政治宣言:HIV との闘いを高速対応軌道に乗せ、2030年のエイズ 流行終結を目指す』にもパラグラフ56には次のように明記されています。
『56:2020年に世界の新規HIV感染者数を年間50万人以下、エイズ関連の原因で死亡する人を年間50万人以下に減らし、スティグマと差別をなくすというターゲットを約束する』
もしも試算が正しいとすると、だいぶ話が違ってきますね。それでも95-95-95の達成をもって、「公衆衛生上の脅威としてのエイズ流行」は終結したといえるのでしょうか。
一方で、ワクチンに関していえば、「半分ぐらいは効きますよ」といわれて、接種したいと思う人が果たしてどのくらいいるのだろうか。この点も疑問です。
ネガティブなことばかり言ってすいません。世界の・・・は荷が重いにしても、せめて日本国内の対策が理にかなったものであってほしいという思いのしからしむるところでありまして、T as Pやワクチン開発を否定しようという意図はありません。
ネットで検索すると、この試算は今年3月、米国科学アカデミー紀要(PNAS)という学術雑誌の電子版に掲載された《Effectiveness of UNAIDS targets and HIV vaccination across 127 countries》という論文で紹介されています。
http://www.pnas.org/content/114/15/4017
報告しているのはオレゴン州立大学や、イェール大学の研究者です。アブストラクト(要約)のページだけ読みました。本文を全部読んだわけではありません(読んでも試算のしかたなどは理解できないと思うので、悪しからず)。その要約ページを日本語に仮に訳すとこんな感じでしょうか。
【重要性】
HIV治療の極めて大きな進歩にも関わらず、世界的な大流行はまだ縮小には転じていない。HIV感染の診断および感染した人の治療の拡大を目指す国連合同エイズ計画(UNAIDS)のターゲットと部分的に有効なHIVワクチンを評価するため、私たちは127か国を対象にした数学モデルを開発した。診断と治療が現在のレベルのままだと2015年から35年までの約20年で約4900万人が新たにHIVに感染すると私たちは推計した。UNAIDSの野心的ターゲットが実現できれば、このうちの2500万人の感染が防げる。また、2020年に50%有効なワクチンを導入すれば、さらに630万人の感染を防ぐことが期待できる。私たちの研究は、部分的に有効なワクチン導入が特定の国々にもたらす影響を推定し、世界的にHIV感染をなくしていくうえでの重要性を示した。
【アブストラクト】
HIVのパンデミックは依然、多くの死者と新規感染、世界的な経済負担をもたらしている。それと同時に抗レトロウイルス治療や診断技術の改善、ワクチン開発が、予防としての治療および治療法の新たなツールとなっている。私たちは127か国において、診断、治療、ウイルス量の抑制を目指すという文脈の中でHIVワクチンがもたらす追加的な成果を評価するための数学モデルを開発した。現在のままの対策が続けば、2015年から2035年の間に世界全体で4900万人[4400万~5800万人]が新たにHIVに感染すると私たちは推定している。UNAIDSの95-95-95ターゲットが実現できれば、このうちの2500万人[2000万~3300万人]の新規感染を防ぐことができ、さらに2020年に50%の効果があるワクチンを導入してその効果を徐々に70%まで引き上げれば、さらに630万人[480万~870万人]の感染が防げるとの見通しを示した。ワクチンによってこうした追加的な利益が望めることで、現在進められているワクチン臨床試験がHIVコントロールのゴールを実現するための差し迫った、そして使用可能な候補のとしての必要性を有していることを示すものだ。
【重要性】も【アブストラクト】も、同じことを繰り返しているような感じです。論文には論文の様式美というものがあって、こんな具合にくどくどと書かなければいけないのでしょうね。同情します。
どうしていま、50%のワクチンが話題になるのか。それには背景があります。
2016年末に7年ぶりのHIVワクチン臨床試験が南アフリカで始まりました。その試験で使われている候補ワクチンの効果が50%とされているので、研究するのはいいとして、それじゃあ実際には使えないでしょう・・・という批判もあります。試験の結果は2020年後半にわかる見通しのようです。奇しくも90-90-90ターゲット締め切りの直前。微妙な時期ですね。
米国でHIV陽性者向けに発行されている雑誌POZマガジンのサイトには2017年5月9日付けで『新たなHIVワクチン候補が半分しかリスクを下げられないとしたらどうする?』という記事が掲載されています。
What If the New Experimental HIV Vaccine Cuts Risk by Only Half?
By Benjamin Ryan
https://www.poz.com/article/new-experimental-hiv-vaccine-cuts-risk-half
その記事によると、HVTN702と呼ばれる南アの臨床試験には5400人の男女が参加しています。使われる候補ワクチンは、タイで行われたRV144臨床試験のワクチンの改善型ということです。
タイの臨床試験では2009年に控え目な効果が確認されています。ワクチン接種後3年半の時点で、HIV感染のリスクを31%減らすということです。これがHIVワクチンの臨床試験で唯一の成功例とされている事例なのですが、31%ではさすがに使えません。
改善の結果、50%のリスク削減効果が示せればどうなるか。それがいま、ワクチン開発分野における議論の焦点です。POZマガジンの記事によると、米国立アレルギー・感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長は「50%の効果は確実にありますということなら、ゴーサインを出す」と語っているそうです。詳しくは記事を読んでください。60%以上の効果が望ましいけれど、50%でも何もしないよりまし。50%の効果が確認されれば、実用化に踏み切り、広く普及をはかる中で70%ぐらいにまで徐々に効果を高めていければ・・・というシナリオのようです。
こうしたシナリオが認められるのも、HIVにはワクチンだけが予防に有効な手段というわけではないという事情もあります。
POZの記事では、たとえばはしかのワクチンとの比較において次のように書いています。
『はしかを防ぐにはワクチンしかないが、HIV感染の予防ツールには、コンドーム、性行動の変容、予防としての治療(治療がうまくいけば感染のリスクを減らせる)、曝露前予防投与またはPrEP(99%以上の効果があるかもしれない)、VMMC(男性器包皮切除、60%の効果)などがある。こうした方法を広げていけば、世界的な流行を封じ込めることも可能になる』
まさにコンビネーション予防の考え方ですね。ワクチンも抗レトロウイルス治療も、期待すべきなのは、追加的手段としてのインパクトです。これがあれば、もう他の予防手段はいらないというものではない。このことはきちんと理解しておく必要があります。