国連合同エイズ計画(UNAIDS)の年次報告書関連スライド集からの紹介を続けます。今回は『流行の現状』から。
1990年からの新規HIV感染者数推計の年次推移です。現在の抗レトロウイルス療法(ART)につながるカクテル療法の成果が華々しく発表された1996年とその翌年の1997年あたりをピークに年間の新規感染は減少に転じています。
こういうグラフを見ると、「ほらね、治療が与える感染の予防効果は大きいでしょう」とついつい言いたくなりますが、新規感染の減少に関して言えば、1996年以降しばらくの間の減少傾向は治療の普及がもたらしたものとはいえません。そもそも感染が多く報告されていたアフリカやアジアの国々に治療用の抗レトロウイルス薬が本格的に普及していくのは、21世紀に入ってからです。
つまり、新規感染の減少は、治療対する希望があまり見いだせない時代に、差別や偏見と闘い、対策の必要性を呼びかけてきたHIV陽性者自身、およびその周囲の人たちが、支援や新規感染予防のためのセーファーセックスの呼びかけといった困難な努力を続けてきたことの成果ではないかと思います。最初のエイズ症例報告から15年の蓄積を経て、ようやく1990年代の半ばに減少というかたちで、その成果が反映されるようになったのです。
GIPAも、レッドリボンも、メモリアルキルトも、行動変容の呼びかけも、コンドームプロモーションも、そしてあまりにも多くの人の死までもが、新規感染の減少という観点からみても、それぞれに重要な役割を担ってきました。それを忘れることはできません。
T as P(予防としての治療)の効果は、先に治療の普及が進んだ高所得国で先行的に表れてきますが、それだっておそらくは、こうした土台があったからこそ、2000年から2010年あたりにかけてようやく少しずつ確認されるようになったのではないでしょうか。
世界のエイズ関連死者数の推移をみると、治療普及の効果はよりはっきりと示されています。年間の死者数が最も多かったのは2005年前後で、そのあとは減少が続いています。
グラフの右端にある○印は、ケアカスケードの90-90-90ターゲットが達成された時の死者数です。新規感染のグラフにも同じ○印があります。
比べてみると、死亡者数はあと少し努力すれば達成可能なところまで来ています。
しかし、新規感染者数は、2020年には達成不可能な状態です。T as Pは一定の効果をあげていますが、期待通りではありません。何が欠けていたのかを考えなければならない。HIV/エイズ対策の医療化、保健化にハイになっていた医療関係者もようやくそのことに気づき始めたというのが、世界の現状であり、私の印象で言えば、日本の現状でもあります。治療の普及がもたらす成果を絶対視も否定もせず、どうすれば生かせるかを考えることが必要です。
もう一枚、スライドを紹介しておきましょう。2010年以降の地域別新規感染の推移です。
ラテンアメリカと東欧・中央アジアのグラフに注目しました。ラテンアメリカでは、ブラジルを除くと、他の諸国の新規感染は減少の傾向を示しています。ただし、ブラジルでは2013、14年あたりから新規感染の増加傾向が顕著になっています。
また、東欧・中央アジア地域では、2010年当時と比べると、新規感染が29%も増加していますが、ロシアを除くと4%の減少です。つまり、ロシアでは恐るべき新規感染の拡大が続いています。世界や地域を丸めてみていただけでは、把握しきれない現実がそこにはあります。
年次報告書Global AIDS Updateの8ページには次のような記述があります。
There are also varied trends within regions. In Latin America, for example, strong reductions in new HIV infections in El Salvador (48% decrease), Nicaragua (29% decrease) and Colombia (22% decrease) since 2010 are offset by increases in new HIV infections in Chile (34% increase), the Plurinational State of Bolivia (22% increase), Brazil (21% increase) and Costa Rica (21% increase). Trends within large countries can have an outsized influence on regional averages. In eastern Europe and central Asia, for example, the regional trend in new infections excluding the Russian Federation (which accounted for 71% of the region’s new HIV infections in 2018) is a 4% decline instead of a 29% increase.
『地域内の傾向も一様ではない。たとえば、ラテンアメリカの新規感染は2010年当時と比べると、エルサルバドル(48%減)、ニカラグア(29%減)、コロンビア(22%減)と国によって大きく減少している。ただし、チリ(34%増)、ボリビア(22%増)、ブラジル(21%増)、コスタリカ(21%増)などの増加でその成果は相殺されている。地域の平均値は大国の傾向に大きな影響を受けることになる。たとえば東欧・中央アジア地域では、ロシアを除くと4%の減少になる。ただし、2018年の場合、ロシアが地域内の新規感染の71%を占めており、ロシアを含めた地域全体の新規感染は2010年当時より29%増となった』
ブラジルはかつてHIV/エイズ対策の優等生と考えられていた国ですが、国の経済状態や政策、あるいは政権の変更によって、対策の遂行が困難になっているのでしょうか。
ロシアでは2014年にソチ冬季五輪、ブラジルでは2016年にリオデジャネイロ夏季五輪が開催されています。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックを控えた日本の現状はどうなのでしょうか。さすがに、準備期間もあと1年を切っており、最近は感染症対策の必要性が盛んに指摘されるようになっています。
ただし、HIV/エイズは急性期の感染症ではなく、かりにいま感染が広がる要因を抱えていたとしても、実際の感染拡大が把握できるのは後になってからです。
行政の担当者にとっては、そんなもので在任中に自らの責任を問われることもないでしょうから、対応の必要性がちらっと頭をかすめることがあったとしても、優先順位の低い課題になってしまうのかもしれません。