ラヴズ・ボディ エイズの時代の表現 再録(上) エイズと社会ウェブ版306 

 115日夜に東京都港区のSHIBAURA HOUSEで開かれた「Living Together/STAND ALONE」は今回が2回目の開催になるということでした。では1回目は何時だったのかというと、東京都写真美術館で《ラヴズ・ボディ 性と生を巡る表現》開催中の20101123日でした。

最初は写真展のスペシャル・イベントとして開かれ、その7年後に2回目のステージが実現しました。そうか、そうでしたか。個人的には「ラヴズ・ボディ」と聞くと、ざわざわっと胸の中が沸き立ってきます。写真展の開会直前には4人の作家による日本記者クラブの記者会見で司会を担当し、ブログのエイズと社会ウエブ版という連載で2010103日から31日までの間に、6回にわたって写真展の紹介というか、感想というか、とにかくいたずらに長々とした文章を書いていたからです。

残念ながら緊急決定イベントだった第1回のLiving Together/STAND ALONE」を観ることはできず、実はその存在すら知らなかったのですが、ご都合主義の性格をいかんなく発揮して、不思議な縁を感じます。

ブログはその後に引っ越しているので、その時に連載も消えてしまいました。でも、引っ越しの際に何とか原稿のサルベージを行い、2014年にはFacebookに再録しています。

ところが今回、探してみると、Facebook上からはなかなか探すのが大変ですね。

1回目の「Living Together/STAND ALONE」がどのような背景のもとで開かれ、それが今回の再演とどう関連しているのか。そうしたことを考えるときのヒントになるかどうか、それは時間の無駄を承知で読んでもらえるかどうかにもかかっていますが、2010年の連載の、そのまた2014年の再録を改めて当ブログに掲載します。

あれ?どこかで見たような文章だな、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。ただし、もともとの読者が少ないので、その辺は大目に見ていただきましょう。6回分の一気掲載はあまりにも長いので、上中下3回に分けて掲載します。

 

 

 

◎ラヴズ・ボディ エイズの時代の表現 エイズと社会ウエッブ版31 2010.10.3

 東京・恵比寿の東京都写真美術館102日から「ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現」という展覧会が開かれている。英文表記は「Loves body art in the age of AIDS」。副題部分を直訳すれば「エイズの時代の芸術」だろうか。個人的には「エイズの時代の表現」あたりにまで踏み込んでみたいところだ。

日本語の副題はさらに大きく踏み込んで、「生と性を巡る表現」となっている。東京都写真美術館がオリジナルで企画した展覧会であることを考えると、事情はむしろ逆で、日本語タイトルが先にあり、あとで英語の副題がついたのかもしれない。

英文タイトルには明示されていて日本語では隠れているエイズの流行がこの展覧会の大きなテーマである。エイズの流行が性を深くとらえなおす契機となったという意味では、日本語の副題が的外れということもまた、できない。むしろ、企画者の強い思い(平たく言えば、いかに入れ込んでいるか)が伝わってくるという印象も受ける。

8人の出品作家は自らHIVに感染しているか、身近な人をエイズで失った経験を持っており、男性同性愛者でもある。

HIVの主要な感染経路の一つが性行為であり、とりわけエイズの流行の初期においては欧米大都市圏のゲイコミュニティで主に症例が報告されていた。このためエイズはゲイの病気という印象が強まり、それがエイズに対する差別や偏見、排除などの感情を社会的に引き起こす大きな理由の一つ(すべてではないが)となった。

ゲイであることを自認する作家の多くが、エイズの流行という世界史的現象に直面し、自らの存在をかけて表現した作品は社会に大きな影響を与えてきた。アートにはまったくの素人だが、1980年代後半からまがりなりにもエイズの取材を続けてきた記者として、このことは強調しておきたい。

それと同時に自分がHIVに感染したり、親しい人がHIVに感染していたり、あるいは同性愛者であるという自認を持っていたりということがなければ、エイズの流行に深く影響を受けていることにはならないのだろうかということも、ここであえて付け加えておかなければならない。

8人の作品がそんなことはないということを逆説的なかたちで伝えているということも書き添えておくべきだろう。治療や予防に携わる人たちが、一部ではあれ、がんがん検査をして陽性と分かった人に早く治療を提供すれば、新たな感染は減らせるみたいなことを語って恥じない現状も考えると、とりわけそう思う。なぜそう思うのかということをできればこれから書きたい。

展覧会の開幕前日には報道関係者を対象に内覧会が開かれ、作家8人中4人が会場で自作について語った。その話を聞き、昨今の日本のエイズ対策をめぐる状況の中でよくぞこのような展覧会を企画してくれたと感謝をしたくなる。

実はそのさらに前日の930日には日本記者クラブ4人の作家を招いて記者会見を行い、アートには縁がないけれどHIV/エイズにはいささか縁が深いと自分では思っている私が、司会を担当した。

同性愛者ではなく、HIV陽性でもなく、エイズで友人を失った経験もないのに、このような展覧会を企画する資格があるのだろうかと悩みつつ、12年もかけて展覧会の開催を実現させたキューレーター笠原美智子には、そっと手を合わせ、頭を下げたい思いである。下げなかったけど。

会場にいた作家はAAブロンソン、ウイリアム・ヤン、スニル・グプタ、ハスラー・アキラ/張由紀夫の4人で、いなかったのはすでに亡くなっているフェリックス・ゴンザレス=トレス、エルヴェ・ギベール、ピーター・フジャー、デヴィッド・ヴォイナロヴィッチの4人である。エイズの流行がいかに多くの才能を奪っていったか。8人の作家の半数が不在である事実は、そのこともまた、無言のうちに示している。「いまも生きている」という言い方は適切ではないのだろうが、輝かしくも困難なエイズの時代を生き続け、21世紀10年目の秋を迎えた東京で自作を語る4人の作家の話を次回以降、微力ながら紹介したい。

  

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◎「吊された男」と「拡大された大家族」 ラヴズ・ボディ2 エイズと社会ウエブ版32 

2010.10.5

 ニューヨークを拠点に創作活動を続けるAAブロンソンの作品は巨大である。東京都写真美術館の「ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現」では会場を入るとすぐ、正面の壁面にブロンソンの作品3点が展示されている。「吊された男#2」「吊された男#4」の2点は、それぞれタテ3.05メートル、ヨコ1.22メートル。その間にある「アンナとマーク、200123日」はタテ2.135メートル、ヨコ3.05メートル。絶望と希望を表すこれらの作品は、ブロンソンにとって巨大さが、少なくとも等身大以上の大きさが不可欠であったのではないか。そうしたことを納得させる作品でもある。

 カナダ出身のAAブロンソン1969年、ホルヘ・ゾンタル、フェリックス・パーツの2人とともにトロントで「ジェネラル・アイデア」という芸術家グループを結成した。94年にゾンタルとパーツがともにエイズで亡くなるまで、このグループは《パフォーマンス、ヴィデオ、写真、絵画、彫刻、『ライフ誌』をもじった雑誌『ファイル』の出版(1972-89年)など、幅広いメディアを駆使しながら商業主義やメディアへの批評に満ちた作品を発表》してきたという(『ラヴズ・ボディ』の作家解説より)。

 2人のパートナーをほぼ同時に失い、ブロンソンは途方に暮れた。25年間、ジェネラル・アイデアとして作品を制作してきたので、「突然、ソロアーティストとして活動するようになっても、やり方が分からなかった」という。

ジェネラル・アイデア2人の仲間だけでなく、90年代前半の短い期間に周囲の親しい人のほとんどをエイズで失うことにもなった。

「吊された男(ハングマン)」はその途方に暮れたブロンソン自身が被写体である。「アートの上でも、人生の上でも、パートナーがいない。どう作品を作ったらいいのかも分からない」という状態で身動きできない自分の姿を裸で宙づりにされることで示している。

なんだ、そのまんまじゃん、という気がしないでもないが、そうした悲しみや無力感は、手を後ろに組んで吊されている後ろ姿の(しつこいようだが、等身大を超えた)大きさによって無言のうちに伝わる。

プレビューで作家自身の説明を聞いたうえでの感想なので、《無言のうちに》というのは正確ではないかもしれない。ただし、ブロンソンの穏やかな語り口は、あたかも無言のコミュニケーションであるかのように胸に響いてきた。

 吊り下げられ、何もできない状態から脱してブロンソンがソロアーティストとして活動を再開するまでには5年ほどかかったという。ひげもじゃの男が生後10カ月の娘を抱いている「アンナとマーク、200123日」は01年から02年にかけての作品だ。先ほどの「吊された男」が02年。21世紀を迎え、ニューヨークは米中枢同時テロにより世界貿易センタービルが目の前で崩れ去る場面を目撃した。参考までに書いておけば、9.113カ月前の016月に国連エイズ特別総会が開かれたのもニューヨークだった。ブロンソンはこの時期に個人として希望と絶望の表現を試みていたことになる。

生まれたばかりのアンナを抱くひげもじゃのマークは、彼の新しいパートナーであり、アンナはレズビアンのカップルとゲイのカップルの4人の娘である。つまり、彼女には、母親と父親がそれぞれ2人いる。「ニューヨークでは、かなりの数のゲイ、レズビアンが子供を持つようになった。エイズであまりにも多くの死を経験したためではないか」とブロンソンは説明する。

おびただしい数の恋人や友人、知人といった人たちの命が失われたニューヨークという町で、「コミュニティの中の拡大された大家族」ともいうべき人と人とのつながりを求める動きが顕著になったことも、エイズの流行がもたらした影響の一つとして、注目しておかなければならない。