少なくとも私はあぶりだされたくない エイズと社会ウェブ版530

 テレビのワイドショーをみていたら、またまた、「検査で感染者をあぶりだす」みたいなコメントをしているお医者さんがいました。コロナの話です。でも、HIVのことも考えながら「また出てきたよ」とうんざりするような思いを禁じられません。なまじ専門知識のある方が自信をもって語られると、罪作りですらあります。

 あくまで個人的な感想ですが、私の場合、あぶりだすというのは、例えば、枯草を焚いて穴の中に煙を送り込み、中に潜む小動物を追い立て、いぶりだすような、どこか懲罰的イメージが伴っている印象を受けます。

 検査は何のために行うのか。病を抱える人を救うために、その病の原因を確認する。素人ながら、そのために検査はあるのではないかと思います。少なくともあぶりだされるために検査に追い込まれるような事態は避けたい。

 たとえば、検査は感染していないことを確認して安心するため(結果としてそういうことがあってもいいけれど)に行うものではなく、感染した人と感染していない人をより分けて、集団から排除するため(短期的には、そうした措置が必要なことがあるにしても)に行うわけでもありません。必要かつ適切な医療を提供できるようにする。それが本来の目的ではないでしょうか。

 あぶりだされることを目的にした検査には、医学にも疫学にも素人ながら、賛成はできません。検査は病に苦しむ人がいたら、その苦しみを解決するか、あるいは緩和することができるようにするため、そして、病に気付かずにいる人がいたら、気付くことを通じて適切な医療につながれるようにすることを目的に行うものではないか。基本的にはそう思うからです。

 ふたたび社会が不安に覆われようとしているこの時期に、コロナの話をHIVに結び付けて語ることには、ややためらいがあります。しかし、同時に、検査の普及に関わる課題を、ここで語らずにいて、どうするという思いもあります。

 うまく整理がつきませんが、HIV分野でいま注目されているU=Uのメッセージに対し、大きな魅力を感じるものの、個人的には、医師主導でU=Uが語られる時のそこはかとない違和感もぬぐえない。そこには検査によって、隠れた感染者をあぶりだしたいという医学者の情動がエビデンスの名のもとに正当化されているのではないか。そんな疑念がかすかに残っているからなのかもしれません。

 HIV陽性者のコミュニティというものが仮にあるとすれば、いまこういう話をもちだすことは、そのすべての人たちから総スカンを食ってしまう結果を招いてしまうかもしれません。それでも、あえて書いておきたい。U=Uに反対するわけではなく、今年の初めにうかがったブルース・リッチマン氏のお話しにも共鳴する部分の方がむしろ多かったのですが、それでもまだ全面賛成はしかねる、ましてやキャンペーンの先頭には立てない。医師と当事者の同床異夢は解消できていない。

 どういうことなのか、実はまだ、考え方がもやもやっとしている状態ですが、この感触は放置しておきたくはない。第34回日本エイズ学会のU=Uに関するシンポジウムの動画もまだ見ていないので、オンディマンド配信で見る機会が得られれば、この機会に、シンポの議論も参考にしつつ、もう少し考えを整理してみたいと思います。