HIVとオリンピック・パラリンピック 1 『モスクワとロサンゼルス』

 日本エイズ学会誌の20192月号に『HIVとオリンピック・パラリンピック』という文章を寄稿しました。半年後には当該号のPDF版が学会公式サイトに掲載されるということです。

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こちらは2018年8月号。2019年2月号はもうちょっと待っててね 

 エイズ学会の会員ではないけれど、早く読みたいという(ま、少数だとは思うけれど)極めてありがたいリクエストもあり、少々、加筆しながら原稿を当ブログにも掲載することにしました。ちょっと長めなの、一挙掲載ではなく、数回に分けてお読みいただけるようにしたいと思います。

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HIVとオリンピック・パラリンピック 40 years of HIV and Olympics Paralympics

 1 『モスクワとロサンゼルス』

 米国でエイズの最初の公式症例が報告されたのは19816月だった。東京オリンピックパラリンピックが開かれる2020年から逆算するとほぼ40年前になる。1980年代の後半からエイズ取材を続け、わずかではあるが五輪取材も経験した記者として感想を言えば、五輪の変遷とHIV/エイズの流行には、時代背景を共有する強いつながりがあり、それは大会ごとに報じられる「選手村でコンドーム」といった話題にとどまるものではない。HIVと五輪の40年史を振り返ってみよう。

 

◆モスクワとロサンゼルス

 後にAIDS後天性免疫不全症候群)と呼ばれるようになる疾病の最初の公式症例が米国で報告された当時、オリンピックは地政学上の大きな危機に追い込まれていた。報告の前年に開かれた1980年のモスクワ夏季五輪では、ソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議し、米国のカーター政権が大会ボイコットを呼びかけ、結果として日米を含む約50カ国が参加を取りやめている。

その背景には冷戦期の米ソ2大国による東西対立があった。日本国内では当時、柔道の山下泰裕選手やレスリングの高田裕司選手らそうそうたるアスリートが涙ながらにオリンピック参加への思いを訴え、テレビのニュースでも報じられたが、それでも不参加の方針は覆らなかった。

ただし、欧州では分断国家だった西ドイツを除けば、イギリス、フランスなど西側の多くの国が参加している。一方で、不参加国には中国も含まれていた。各国間の思惑には濃淡の差があり、事情はやや複雑なのだが、それでも大国間の政治的思惑に翻弄されたという点で、モスクワは冷戦の時代を象徴する大会となった。

 次の1984年ロス五輪は、その報復のかたちでソ連東ドイツなど東側諸国の多くが参加していない。ロス五輪は同時に、テレビ放映権料やスポンサー企業の協賛金、入場料収入などで開催費用をまかなう「商業五輪」の嚆矢となり、しかも、黒字だった。

招致段階で立候補都市がロサンゼルスしかなく、五輪の引き受け手を探すのに苦労していた時代である。政治の介入を防ぐためにも商業化への道は避けられず、それを支えたのはテレビ中継の視聴者を含む大観衆だった。

人と情報の大規模な移動というグローバル化の流れが、やがては米ソの対決という冷戦構造の崩壊を促していく。そのいわば萌芽とされる時期にモスクワとロサンゼルスという二つの対照的な都市で、奇妙な相似形をなす変則五輪が開催された。

それは同時にエイズの病原ウイルスであるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の感染が静かに世界に広がり、世界的な大流行(パンデミック)のレベルにまで達しつつあることを人類が認識するようになる時期でもあった。

五輪という巨大イベントの支え手が国家から大観衆へと移行する舞台となったのがロサンゼルスであり、同時にロス五輪開催の3年前(つまりモスクワ五輪1年後)に世界で最初にエイズの公式症例を報告したのもこの町の医師だった。

ロス五輪が開かれた1984年夏の時点で、米国のエイズ患者数は5000人を超え、2300人近くが亡くなっていた。

1984年はロナルド・レーガン大統領が再選を果たす米大統領選の年でもあり、7月に民主党8月には共和党が正副大統領候補指名のための全国大会を開いている。

『舞台裏では、エイズは今度の選挙の暗黙の争点であり続けた。この問題が少しでも考慮されるときには、両政党が相手側を非難する材料として語られるのがふつうだった』

流行の初期の様子を描いた著書の中で、サンフランシスコクロニクル紙のランディ・シルツ記者はこう書き、次のように続ける。

 『もちろん、両党とも全国大会の場ではエイズにはいっさい触れなかった。この問題自体が社会の主流にいる人びとの大半にとって、あいかわらず口にするのをためらわせるものだったのだ』

(注1)『そしてエイズは蔓延した 下』(草思社p215))

 

 ロス五輪の翌年には米疾病予防管理センター(CDC)があるジョージア州アトランタで第1回国際エイズ会議が開かれている。日本から参加した塩川優一博士(元エイズ対策専門家会議議長)によると『参会者は二〇〇~三〇〇人と少なく、会場はまったく平穏であった』という。

(注2)『私の「日本エイズ史」』(日本評論社p110

 

 参考までに付け加えておくと、国際エイズ学会(IAS)が2008年にまとめた『国際エイズ学会の20年』では、アトランタの第1回国際エイズ会議参加者は、ニューヨークタイムズ紙の報道をもとに2000人としている。

(注3https://www.iasociety.org/Web/WebContent/File/IAS_20yearsIAS_book.pdf 

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実際の参加者は塩川さんの記憶より多かったのかもしれない。ただし、会議場には実は200300人程度しか集まっていなかった可能性もある。200人と2000人では10倍も開きがあるが、それでも最近の国際エイズ会議が2万人近い参加者を集める大会議であることを考えると、発足当初はこぢんまりとした会議であったことはうかがえる。

シルツ記者が指摘するように、エイズは「あいかわらず口にするのをためらわせるもの」として多くの人が受け止めていた。個人的には過去形ではなく、「いまはどうなのか」ということを改めて「社会の主流にいる人びとの大半」に問いたい気持ちもひそかに残っている。