永野健二著『経営者:日本経済生き残りをかけた闘い』(新潮社) 読後感想文

 2016年に出版された『バブル』がそうだったように、永野健二さんの新著にもわずか3文字で内容を直截に表すタイトルがつけられています。多少とも本を出した経験がある者としての感想をいえば、なかなかそこまでは思いきれません。出版社によほど腕っこきの参謀がいるか、著者自身が時間をかけて内容の検討を重ね、文章を練り上げていく過程で、これしかないと思えるところに到達したのか、どちらかでしょう。

 勝手な想像で恐縮ですが、おそらくは後者の要素が強いのではないかと私は思います。

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 同時に書店で初めて新刊の一冊を手にしたときには「それにしても『経営者』とは、まいったね」という印象でもありました。

『バブル』には、タイトルだけで読みたいと思わせる磁場のようなものがあったのですが、今回の第一印象は、なんといいますか、「経営者かあ、あまりご縁がないなあ」と少々、躊躇する感じですね。

 結局は購入し、ようやく読み終わったので、少し感想を書きます。ひと言でいえば、私にとっては最も縁遠い人たちかもしれない『経営者』という存在を通して、同年代のジャーナリストが、同時代の歴史を描く手わざの鮮やかさに感心し、『バブル』から受けた新鮮な印象に劣らず、もしかしたらそれ以上に、興味深く読みました。

 本書は戦後間もない時期から、高度経済成長期を経て、バブルを招き、そしてバブル崩壊後の長い停滞に至る時代を4章に分け、それぞれの時代の代表的企業経営者17人を取り上げています。その17人が誰なのかは目次を見れば分かるので列挙しませんが、登場する経営者のすべてが、私にとっては会ったことも、お話をうかがったこともない人です。より詳細に言えば、そのうちの2人はお名前も本書で初めて知りました。

同じように長く新聞記者をやっていながら、ぼ~っと生きてんじゃねえよ!とお叱りを受けそうですね。面目ない。

 話が横道にそれました。『バブル』と『経営者』の2冊には共通するキーワードがあります。それは『渋沢資本主義』です。おそらくは著者による造語なのでしょうが、渋沢栄一という明治期の経済人が土台を築いた日本独自の資本主義といった意味でしょうか。

『バブル』ではいまひとつ腑に落ちた理解ができていなかったのですが、渋沢資本主義へのこだわりをより強く打ち出した『経営者』の序文には、その内容が簡潔かつ平易に説明されています。少し引用しましょう。

『資本主義という苛烈な仕組みを、穏健な日本社会の中に埋め込むための知恵だった。欧米流の利益第一の資本主義ではなく、「公益」を第一に考え、公益の追求が利益を生み出す資本主義だった』

そして、その『日本資本主義の哲学』は『戦後の日本システムを通じて脈々と生きつづけた』と説明したうえで、著者は『明治維新から太平洋戦争の敗北までを前期渋沢資本主義』『戦後の復興からバブルまでの時代を後期渋沢資本主義』と名付けています。

本書が主に取り上げているのは『官民が役割を分担しつつ一体となって動き、その頂点に「興銀、大蔵省、新日鉄」が君臨する』という『後期渋沢資本主義』の時代、およびその存在の前提が80年代のバブルの時代に崩壊して、現在に至るまでの時期に相当します。

この間の経営者群像を永野さんはかなり冷徹に描き、対象によってはどこか突き放したような記述も目につきます。

バブル崩壊後の失われた20年を経て、現在の大手企業経営者のある種の惨状を見れば、採点が厳しくなるのも致し方ないのかもしれません。

ただし、経済記者としての長い経験の蓄積を持つ著者には、それらの多くの経営者の大半と直接、接触し、その印象から評価すべきところは積極的に認めていく視点もあり、それが逆に哀切ともいうべき内容の深みを本書に与えているように思います。

前著『バブル』に登場した紳士たちの多くは時代の大きな渦にほんろうされ、消えていくのですが、そのことを批判的に記述しつつも、どこかに惜しむような、あるいは墓碑銘を刻み込むような哀切があったことをもう一度、思い出しました。

各章には45人ずつ経営者が紹介されていますが、必ずその最後に紹介される経営者には高い評価が与えられています。それは時代の若干のずれをあえて無視して言えば、「バブルに踊らなかった人たち」とも言えそうです。

そうした経営者に対する評価には、『バブル』で踊った人たちへの別れとあわせて、『80年代のバブルの時代に存続の前提が崩壊する』という経緯をたどってきた渋沢資本主義がもう一度、新たな再生を果たすことを願う永野さんの思いが込められているようにも、私には受け取れました。

例えば第2章『高度消費社会の革命児たち』の4番目に登場する宅急便の生みの親、小倉昌男氏について永野さんはこう書いています。

『官民が一体となった予定調和の資本主義を、戦後の渋沢資本主義と呼ぶならば、小倉こそ渋沢資本主義を壊した男、渋沢資本主義に引導を渡した男である』

ただし、そこで終わるのではなく、すぐ後では『その崩壊が明らかになりつつあるアメリカ式の市場原理主義に代わるモデルを小倉昌男に求めるならば、小倉こそ新しい資本主義の実践者であったと言ってもよい』とも続けています。

小倉氏は10年以上も前に亡くなっていますが、永野さんはさらに『小倉昌男が考えつづけ、実践しつづけたテーマは、資本主義は公益に資することができるのかという問題だった』と書き、その『古くて新しいテーマ』について『それは資本主義に解のない解を求める旅を、すでにいない小倉昌男に代わって私たちが始めることでもある』と結んでいます。

 次の時代に向けて、どこかラブソングにも似た記述とはいえないでしょうか。

 あとがきで著者は『今、グローバリゼーションが世界に浸透するなかで、資本主義が問い直されている。明るい未来は何処にも見当たらないようにみえる』と書いています。この危機感は実は、まったく畑違いのHIV/エイズの流行という現象にジャーナリストとして取り組んできた私の現在の課題と通底するものでもあるように思います。少々我田引水気味になりますが、機会があればそのあたりの感想ももう少し書いてみたい。そんなことを漠然と思いつつ、この一冊の贅沢な読書体験をひとまず終えましょう。