ラヴズ・ボディ エイズの時代の表現 再録(中) エイズと社会ウェブ版307 

 

◎言葉には尽くせない落差 ラヴズ・ボディ3 エイズと社会ウエブ版33 (2010.10.8

 オーストラリア人以上にオーストラリア人らしくあれ。1943年にオーストラリアのノース・クイーンズランドで生まれたウイリアム・ヤンは、少年時代に母親からこう言われて育った。白豪主義White Australia Policy)という言葉に総称される白人最優先主義が国家政策として採用されていた1950年代のことである。中国系3世のオーストラリア人であるウイリアム・ヤン少年にとって、オーストラリア人らしく考え、語り、行動することはつまり、自らの存在が半ば否定されるかたちで成長することだったのではないか。

「幼い頃から自分がゲイであることは分かっていた」ともヤンはいう。人種もしくは民族的な文脈に加え、性的指向においても、彼は当時のオーストラリア社会の中で二重に少数者であることを抱えながら、息を潜めるようにして暮らしていくことを余儀なくされていた。

 「抑圧されるべきものとして24歳までクローゼットに隠れ、カミングアウトしなかった」

 大学では建築を専攻したが、舞台と演劇に強く惹かれ、1960年代後半にクイーンズランド州の州都ブリスベーンからオーストラリア最大の都市シドニーに移って脚本家として生活するようになった。

ゲイ男性としてカミングアウトし、新たな自分のアイデンティティを獲得していったのはこの時期だという。性や文化に関する考え方の大きな変革期であり、ゲイリボリューションと呼ばれる動きが、欧米やオーストラリアで広がろうとしている時期でもあった。

若きウイリアム・ヤンは舞台・演劇に惹かれながらも、戯曲では生活が苦しいので、写真を撮って生計を立てるようになった。そのせいか、彼の作品はストーリー性とでもいうべき演劇的な構成を色濃く持つ。「自分にとって写真はドキュメンテーション(記録を残すこと)」であり、その記録には文章が必ず付けられている。「コンテクスト(文脈)を加えることでアートとしての表現になる」とヤンは説明する。

独白劇《悲しみ》(1996年)の中の《アラン》という作品にも、一枚一枚の写真に日記のような短い文章が付されている。

アランはかつて分かれた恋人である。198810月にアランがエイズシドニーの病院に入院したことを知り、ヤンは見舞いに行く。アランはいったん回復して退院するが、しばらくすると病状が悪化して再入院し、今度は回復することなく、衰弱しきった状態で世を去る。19907月のことだ。

 《アラン》はその3年ほどの元恋人の様子を撮影した18枚と、もっと若いときのアランの写真1枚、そして19の文章で構成されている。亡くなった日の写真にはこう書かれていた。

 

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《きのう彼を見たときは死人のようだと思ったけれど、昏睡状態にあっても生きているアランと、死んでしまったアランとでは、その落差は言葉に尽くせないほど大きかった》

写真で見る限り、生きているアランの元気なときと衰えてからの落差もまた大きい。アランは906月、「病院ではもうこれ以上のことはできないから」と帰宅を許され、自宅に戻る。だが、7月には自宅で投薬治療を続けることをやめ、ホスピスに移る。やせ衰え、衰弱しきった姿は痛ましい。それでもヤンが撮影した写真は、当時報道で取りあげられることがしばしばあった末期のエイズ患者の写真を見るときと大きく印象が異なる。

どうしてなのか。「ストーリーが大事だ」とヤンは作品の前で説明した。それが文章でコンテクストを明らかにするということなのかもしれない。

 1990年の夏、私は米国東海岸のボストンで、何人ものHIV陽性者と食事をともにし、話を聞いた。エイズ・アクション・コミッティとボストン・リビング・センター、マルチ・カルチュラル・エイズ・コーリションという3つのHIV/エイズ団体で、日本からやってきた新聞記者であることをことわったうえでボランティアとして通うことを許可され、たくさんの「HIV/エイズに影響を受けた人たち」と日常のかなりの時間を共有していたからだ。

抱きしめて「my friend」と言いたくなる気持ちを抑え、「違うんだ。私はあくまでエイズについて取材をする新聞記者としてあなたと知り合ったのであり、あなたの友人ではないし、友人になることもできない」と何度、心の中で繰り返したことだろうか。

それはいま会っている目の前にいる人に対する最小限の誠意である。そう思う一方、悲しさや苦しさで自分自身が押しつぶされてしまうことがないように、どこかで対象と一定の距離を保とうとするジャーナリズムの手法にしがみつきたい気持ちがあったからなのかもしれない。

 ヤンのドキュメンテーションは、そうした手法とは一線を画すものであるように思える。作品の前で淡々と語る小柄な東洋人(のように私には見える)のどこにそのような強さがあるのか。そんなことを考えながら、私は日本のエイズ対策の最前線にいたもう一人の小柄な東洋人(つまり日本人なんだけど)を思い出していた。

 

 

 

◎夢の坂道 ラヴズ・ボディ4 エイズと社会ウエブ版34 (2100.10.9

 やせて、小柄で、穏やかな風貌。静かでゆっくりとした語り口。そして白髪の交じった角刈りの頭のかたちに至るまで、ウイリアム・ヤンは広瀬さんに雰囲気がよく似ている。HIV人権情報センター東京事務所でHIV陽性者の支援活動などを続け、1993年に第1PWA賞を受賞した広瀬泰久さんである。

 日本のHIV/エイズの流行は諸外国に比べれば、はるかに規模が小さく、HIV陽性率も低い。これは大いに評価すべきことではあるのだが、日本のエイズ対策が成果をあげた結果であるとは、私のような調子のいい新聞記者でも、とてもいえない。

国民皆保険と呼ばれるほど公的な医療保険が整い、医療へのアクセスが確保されていること。国民の大多数がほぼ共通の言語を使用し、マスメディアも高度に発達しているので情報を継続的に広く国民に送り届ける社会基盤が整っていること。そして、疾病の予防や健康に対する国民の関心が極めて高いこと。それらが、日本国内でのHIV感染の抑制要因となってきたということはできる。

 ただし、それは日本のエイズ対策の成果というわけではなく、エイズという新興感染症パンデミックに直面したときに、日本にはそのような社会基盤が整っていたということであり、その結果として厚生省(現厚生労働省)がエイズ対策分野において錯誤に等しい数々の悪手を打っても、諸外国に比べれば、なんとかHIV感染の拡大を抑えられてきたということだろう。

 もちろん、緩やかな拡大傾向はこの20年の間、ずっと続いている。それでもなお、日本のエイズの流行は総体としてみると、低流行期の段階にある。それは主に2つの要因によるだろう。

ひとつは極東の島国であるという地理的環境である。先進国のエイズの流行の中心であった米国からは太平洋を隔て、アフリカからも遠い東アジアはそもそもHIVというウイルスが入ってくるのが遅かった。

もうひとつは、ウイルスの伝播のスピードよりも情報の方が早く国内に伝わり、そのことで流行の初期段階から、草の根のレベルでエイズ対策と取り組むNPONGOCBOといった組織が活動を開始し、かつ継続してきたことだ。

 活動の開始はともかく、継続に関しては、そう容易なことではなかった。一時的にパニックのような事態が起きた時期を除けば、エイズの流行がそれほど広がっていない状況のもとで社会の関心が高くなることはあまり期待できない。関心を持続的に維持することは流行がかなり広がっている国でも、たやすいことではない。そうした中で、日本国内では、忍耐強いアクティビストたちの存在がかろうじて現場レベルでの活動を支えてきた。それでなんとかエイズ対策が維持されてきたという印象も強い。

 広瀬泰久さんもその卓越した忍耐力を持つアクティビストの一人だった。彼の人柄については当ブログのフォルダー《詩集・エイズの時代を生きる》の中で、《夢の坂道》と題する詩を紹介し、背景説明の文章も掲載したことがある。『ラヴズ・ボディ』展の紹介という観点からは、かなり逸脱してしまうが、90年代初頭の日本のエイズ対策の現場がどんな様子だったのかということを(少なくともその一端を)伝えるために、以下に再掲したい。

 

夢の坂道

    広瀬泰久さんに

感染していることには

何の価値もない

普通の人は

いない

特別な人は

いる

 

東京の真ん中にも

マンハッタンと同じように

湿った路地はまだ残っていますか

印刷屋の機械が

硝子戸越しに

なんだかんだとうなりをあげ

猫のしょんべんはそれでも乾き

狭い木の階段をあがっていくと

小さなガスストーブの上で

やかんはしゅんしゅんと

まだ湯気をあげていますか

 

エイズの時代を生きるために

ウイルスに感染している必要は

まったくないし

感染していない必要もない

一人で電話の前にいて

大河小説のように

ゆっくりと話していたから

ほとんどかかってこない電話相談には

うってつけの人なんだ

時間もあるし

浅はかにも僕はそう思っていた

エイズと名のつく集まりには

どこにでも顔を出していて

でも発言の機会には

あまり恵まれていないようだった

 

夜道は寒くありませんか

どうして一人で帰るのですか

もっと話がしたかったから

ラーメンを食べようといって

僕は天津飯を食べた

永田町でも中野でも飯田橋でも

だんだん薄くなっていく背中が

遠ざかっていくのは

いつも坂道で

冷たい風が吹いていた

あれは

季節のせいだったのでしょうか

 

感染していること自体には

何の価値もない

でも僕にはそれが分からなかった

普通の人はいない

特別な人はいる

だれにとっても

   (1995

 

 第1回PWA賞の受賞者であるHIVと人権情報センターの広瀬泰久さんが亡くなったとき、私はニューヨークにいました。東京の知人からその連絡をいただき、広瀬さんについて何か書き残しておきたいと思いながらなかなかまとめられず、この詩を書いたのもかなり時間が経過してからでした。

 広瀬さんは不思議な人でした。小柄でやせていたこともあって、あまり目立たない存在でしたが、エイズ対策に関する知識はおそらく誰よりも詳しく、話を始めると次から次へとさまざまなエピソードが飛び出して止まりません。HIVと人権情報センターの東京事務所はJR神田駅に近い裏路地に面した木造家屋の2階にありました。1991、2年当時を振り返ると、昼の間はスタッフがたくさん出入りしていましたが、夕方を過ぎてからは広瀬さんが1人で留守番をしながら、たまにかかってくる電話相談を受けていることが多かったように思います。

 私は90年11月にボストンから戻ったばかりの頃にHIVと人権情報センターの講演会に招かれ、ボストンのエイズ対策の現状などをお話したことがあり、それ以来、たびたび広瀬さんが留守番をしている事務所を訪れました。半分は取材のつもりでしたが、残る半分は広瀬さんが話してくれる思い出話の数々が面白くて、通っているような状態でした。スタッフの1人だったHIV陽性の若者から「宮田さんはしょっちゅう遊びに来てるけど、いつ仕事をしてるの?」と聞かれ、「新聞記者はいかにも仕事をしているように仕事をしていたのではダメなんだ。君にはサボっているように見えるけど、こういう時間の蓄積が大切なんだよ」といい加減な受け答えをしていた記憶があります。

 古いガスストーブの上のやかんがしゅんしゅんと音を立てながら湯気を上げている部屋は昭和へと逆戻りをしたような感じで、ときどき相談の電話がかかってくると、広瀬さんはゆっくりと長い時間をかけて相手の話を聞いていました。あくまで先を急がず、話そのものに没入して行くようなところがあり、ああ、この人は気が長いんだと思いましたが、後になって考えて見ると、そのころすでに彼は長く抱えていた持病が悪化していくのを自覚していたようです。語るべきものはすべて語っておきたいという焦燥感を深く心の内部に沈めながら、ゆっくり反芻するように話を塗り重ねていく。そんな印象が残っています。

 こうした話法は会議などにはあまり向かず、せっかちな私はAIDS&Society研究会議の運営委員会などで何度も「広瀬さん、早く結論を言ってよ」「もうちょっと、まとめて話してくれない」などと無神経な態度で話をせかしたものでした。浅はかとしかいいようがありません。

 あの頃、新聞記者の間では、HIV陽性者を競って探し出し、話を聞くことが何か非常に重要な価値のあることのように考えられていました。HIVに感染している人を紹介できるという触れ込みで、マスメディアの報道をあやつるかのごとき振る舞いを見せる人も世の中にはいました。私はひそかにそうした風潮への違和感を抱くようになり、「感染していることには/何の価値もない」という詩の最初の2行につながっていきました。非難をあびることはある程度、覚悟していましたが、詩を見てもらったエイズ対策関係者からは少なくとも、非難の言葉は帰ってきませんでした。「あいつに文句を言うと、また後がうるさいから。困ったもんだね」ぐらいのことは思われていたのかもしれません。

 広瀬さんのやせた背中は、何度か入退院を繰り返しているうちにますます薄くなっていきました。でも、彼は自分の衰え行くからだのことなどそっちのけで、相談に訪れたHIV陽性者のためにアパートを探したり、病院に付き添ったりと奔走していました。広瀬さんのあまりにも豊富な知識と手腕にみんな、つい頼りすぎてしまったのかもしれません。