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ブルジンスキ氏はなぜUNAIDSに入ったのか エイズと社会ウェブ版267 

 グローバルファンド日本委員会のFGFJレポートNo.12(April 2017)に国連合同エイズ計画(UNAIDS)のリチャード・ブルジンスキ上級顧問(人権・ジェンダー・予防・コミュニティ担当)のインタビュー『HIV/エイズ流行収束への道 コミュニティのたゆまぬ努力』が掲載されています。

 リチャードは昨年12月に日本を訪れ、新宿二丁目のコミュニティセンターaktaなどで日本のHIV/エイズ関係者ともエイズ流行終結をめぐりかなり熱っぽく議論を交わしました。その来日の際のインタビューですね。

 カナダ出身のアクティビストで、インタビューによると、UNAIDSに転身したのは2009年でした。リチャードは・・・となれなれしく書くほど私自身は親しくはないのですが、国際エイズ・サービス組織協議会(ICASO)事務局長時代の1994年には横浜の第10回エイズ国際会議の国際顧問として活躍し、何度も日本を訪れているので、わが国のエイズ対策関係者には親しい友人がたくさんいます。

 ただし、私は横浜会議当時、新聞社のニューヨーク支局勤務だったので、お会いする機会はありませんでした。すれ違いだったわけですね。

 したがって、面識はないけれど、リチャードの活躍ぶりはエイズ取材でよく知っていました。圧倒的に強く印象に残っているのは、2001年も国連エイズ特別総会を取材したときでした。このときの総会で採択されたコミットメント宣言では、エイズ対策で支援が必要なバルナラブルな人たちの集団をリストとしてあげるかどうかで、加盟国間の駆け引きがあり、結局リストは盛り込まれませんでした。その特別総会の最終日、NGO代表として総会議場の演壇に立ったリチャードはこう語ったのです。

 『あなたたちはそのグループの名前を上げることはできないと決めた。だが、私にはできる。そこには男性とセックスをする男性、薬物注射使用者とそのパートナー、セックスワーカーとその客が含まれている』

 この演説で、宣言からは消されてしまった「バルナラブルな人たち」のリストが復活し、国連の公式の記録として残ることになりました。

 うわあ、かっちょいい・・・と私などは感動で心が揺さぶられ、ボールペンがわなわなと震えてメモが取れなかったほどです(注:うそ。ジャーナリストはこういうとき常に冷静であります)。

 おっと、思い出話で脱線してしまいました。インタビューに戻りましょう。

 そのアクティビスト中のアクティビストであるリチャードが国連機関であるUNAIDS入りしたのはなぜか。リチャードは当時、HIV/エイズ対策について、グローバルな連帯の中で新たな方法を模索する時期がきたのではないかと考えていたそうです。

 『ちょうどその頃、UNAIDS事務局長(当時)のピーター・ピオット氏と次期事務局長のミシェル・シディベ氏から、エイズ活動家としての経験を活かして、UNAIDSにコミュニティの風を吹き込んで欲しいと声がかかったのです』

 うわぁ、殺し文句ですね。シディベ氏からは就任後も「君は、国際官僚になるのではない。エイズ対策で取り残された人々のニーズに国連が応えられるように働きかけて欲しい」と念を押されたそうです。

 FGFJレポートはグローバルファンド日本委員会の公式サイトでpdf版をダウンロードできます。

 http://fgfj.jcie.or.jp/library#fgfj-report

 内容の充実した好インタビューに対し、揚げ足を取るようで恐縮ですが、冒頭部分で一カ所。《始まりは、1985 年にモントリオールで開かれたカナダ初の国際エイズ会議でした》という部分は、1989年の誤りではないかと思います。モントリオールの国際会議は閉会式の日にHIV陽性者が初めて壇上に立ち、演説を行ったことで知られています。そのとき演説を行ったのは、横浜会議でリチャードとともにコミュニティリエゾン代表の池上千寿子さんを支え、会議を成功に導いたドン・デュ・ガニエ氏でした。

 なお、当ブログでも、12月2日にリチャードがaktaを訪れた時のレポートを掲載してあるのでそちらもご覧下さい。

 http://miyatak.hatenablog.com/entry/2016/12/13/142216

f:id:miyatak:20161213143206j:plain

この写真はakta訪問時の記念撮影です。