別れはそっとやってくる エイズと社会ウェブ版260

 ACT UP NY のアクティビストで、ビデオジャーナリストでもあるジェームズ・ウェンジー氏がやているDIVA TVというサイトにPrinted Matterというページがあります。
DIVA TV Printed Matter


 そこに載っている1994年8月6日付の記事。横浜で第10回国際エイズ会議が開幕する前日に掲載された、いわゆる前打ち記事ですね。当時私は産経新聞のNY駐在記者で、ストーンウォール25周年のパレードや国際会議に参加するため東京から来られた南定四郎さんとともにチャイナタウンの外れのビル地下室にあったジェームズのスタジオを訪れました。クレジットはなぜか
THE SANDEI SHIMBUN newspaper 8/6/94 (in Japanese) "AIDS Activists in Yokohama
 となっています。まあ、いいか。あの時は北丸さんも一緒だったような気もするけれど、もしかしたら北丸さんは98年に再訪したときにご同行いただいたのかもしれません。低レベルを自他共に許す私のIT力でも、なんとか記事のコピーをまたコピーする技術を習得したので、改めて掲載します。 

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 ジェームズに言及した詩も改めて掲載します。以前にもなんどか紹介してしつこいと言われそうですが、後で付け足した蛇足の説明も載せておきます。悪しからず。


別れはそっとやってくる
 
ショッピングバッグをぶら下げ
巨大なメープル並木の下を歩いていると
遠くかすかに聞こえる音がある
20世紀末の秋の夕暮れ
日本から遠く離れた米国東海岸
ニューヨーク市クイーンズ区の静かな住宅街で
どう考えたって存在しようはずもない
豆腐売りのおじさんが発するラッパの
そのかすかな音色が
ほおをなでる冷たい風に乗って
私には確かに聞こえてくる
 
あと8年の命だと思ったんだがな
1991年にHIVの感染を知ったとき
マンハッタンのアパートの地下室で
Jは覚悟を固めた
あと8年で何が残せるのか
10年のエイズの流行を経験して
医学が
その程度の希望を提供できるところまで
エイズとの闘いは進展していた
 
ところがね
とJはいった
8年を過ぎてもおれは生きている
さてどうするかな
 
いくつかの薬を組み合わせることで
症状の進行を抑え
長く生きていくことが可能になります
では、どれほど長く?
それは分かりません
 
トーフはすっかり健康食品の雄として
北米大陸に定着し
サラダの上にも乗っている
でもそれは
背中の薄い少年がなべを抱え
小銭をにぎりしめて
豆腐屋のおじさんの自転車を追いかけた
あのときのあの食品と同じものでは多分、ない
どこまでも高い
フォレストヒルズの秋の夕空と
冷たい風の中で
中性脂肪を気にしながら
一気によみがえる私の戦後
どこにいても
いつになっても
私は
私の聞きたかったものを聞くのだろうか
 
俺の場合はさ
いまの組み合わせが効かなくなっても
あと2つ変更できる
でも、そのあとはどうなのかな
 
新しい薬が登場して
組み合わせの選択肢が増えれば
つまり医学がさらに進歩すれば
人生の延長戦はそれだけ長くなる
だが、文字通りのサドンデス
突然の死によって
延長戦が終わることだって常にある
 
人は結局、誰もがサドンデスを抱えながら
延長戦を生きているようなものではないか
いつ死ぬか分からないという点では
私もあなたも事情はそう変わらないのだから
もちろんそれが気休めに過ぎないことは
気休めを言われた当人が一番良く知っている
でも、そうだねと
初めて知ったような顔をして見せるのも
死を抱えて生きる人間の
かすかな礼儀だったのだろうか
 
戦後は去り
私たちは
私たちの聞きたかったものと
少しずつ別れを告げていく
     (2003)

 

(蛇足説明) 先進国に限定した話ですが、20世紀の最後の5年間は、HIVに感染した人たちにとって、劇的に環境が変化した5年間でした。この詩に登場するJはチャイナタウンに近いマンハッタンのビルの地下室を自宅兼スタジオにして、エイズに関するテレビ番組を制作し、コミュニティ・チャンネルで流していました。ニューヨークでは当時、ケーブルTV放送の番組枠の一部を市が確保し、社会活動に提供することが義務付けられていました。Jのグループもエイズをテーマに隔週で30分の番組枠を持っていました。彼は自分に残されたと思った8年間のすべてをそこに注ぐつもりでいたようです。
 
 しかし、Jを取り巻く環境は激変しました。まず、治療の進歩により、彼自身が予想していたよりもはるかに長く生きることになりました。次にケーブルTVの公共放送枠がなくなり、エイズ番組の放映が困難になりました。そのかわりインターネットが普及し、Jは新たな表現手段を持つことになりました。彼はいま、ネットジャーナリスト兼エイズアクティビストとして活躍しています。
 2004年7月、バンコクで開かれた第15回国際エイズ会議のメディアセンターで、なつかしいJの顔を見ました。「I am OK」といって彼は胸を張っていました。まだ、元気だぞというわけです。その前に会ったのは2001年6月、ニューヨークの国連本部で国連エイズ特別総会が開かれていたときのことです。爆破テロで世界貿易センタービルが崩壊したのはその3カ月後でした。Jが住んでいたビルは世界貿易センタービルから歩いて10分と離れていないところにありました。エイズの流行から、からくも生き残り、あのテロもまた、潜り抜けてきた。そして、Jが8年の命を覚悟したときには予想もつかない展開で、21世紀は進行しています。
 かつて背中の薄い少年だった私は1995年秋、買い物帰りにニューヨーク市クイーンズ区フォレストヒルズの住宅街を歩いていて、ふとそこが戦後のある時期の東京の風景とよく似ていることに気が付きました。町の様子はまったく違うのに、それでも「あっ、懐かしい」と思ったのはなぜなのか。ずっと書けないでいた詩が、Jの物語とクロスさせることでようやく完成しました。