ノーベル文学賞便乗コラム 『風に吹かれて時代は変わる』

 昨日は風邪をこじらせて体調が悪く、ほとんど寝て過ごしていたので、ボブ・ディラン氏のノーベル文学賞受賞というニュースも知らずに過ごしていました。正確に言うと、一報は聞いたのだけれど、もうろうとしていたせいかサプライズ感もなく「あ、そうなの」と思っただけでまた、さっさと寝ちゃったという感じです。
 したがって、一夜明けての、それも昼下がりの感想で恐縮ですが、ノーベル文学賞選考委員の皆さんの快挙ですね。村上春樹氏は今回もまた受賞を逃す結果になった。この点は残念ではありますが、お楽しみは来年以降にとっておきましょう。
 新聞を読むと、ディラン氏の授賞理由は「偉大な米国の歌の伝統の中に、新たな詩的表現を創造した」ということです。また、発表を行ったスウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長は「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ」とも語っています。
 そうかあと思う半面、「読まれるべきもの」でないと文学賞にはならないのかなあ、という軽い違和感もあります。たとえば、Like a Rolling Stone の歌詞を読むと、どうしてもThe Bandの演奏でボブ・ディランが歌っている曲が耳の中に流れてきてしまう。
 あるいは邦訳で「風が知ってるだけさ」という一行を読むときにも、そのリズムは歌のリズムになっている。
 つまり、詩として読むことは大切だけど、それは歌とは切り離せないといいますか・・・。ここから文学で、そっちは音楽みたいなわけにはいきません。
 もちろん、サラも(知らない人なのに急になれなれしくしてすいません)、アカデミーの皆さんも、その点は百も承知で、詩の持つ意味の重要性と意味だけではない言葉の魅力を重視したからこそ、今年はボブ・ディラン氏を選択したのではないかと思います。文学が内に内にと向かっていくような息苦しい枠組みを思い切り取っ払ってしまうような爽快感。
 そして、もうひとつ、もちろんを付け加えればディラン氏が世界中でヒット作品をたくさん有し、いまも多くのファンに支持されているということも重要な選考の要素だったと思います。つまり、時間軸を少し長くとった上で、売れているかいないかも重要になる。この点も無視できません。売れ筋にシフトしたり、売れない作品に光りを当てたり、この辺の押したり引いたりの加減も、ノーベル文学賞の権威と活力の源泉になるのでしょうね。
 このあたりを全部のみ込んで、今年は、A列車(じゃなかった、これは別の人)、ディランで行こう!と決断した選考委員の皆さんの新しい風に、ここは一つ、大いに吹かれたい。それで時代が変わるかどうか、その答えは風が知ってるだけだけど・・・。
 あかん、出まかせばかり書くもんだから、おじさんは風に吹かれてまた熱が出てきた。