エドウィン・キャメロン『人権をまもり、スティグマを解消する』 エイズと社会ウェブ版240

 ダーバンで開かれていた第21回国際エイズ会議(AIDS2016)では南アフリカ最高裁憲法裁判所)のエドウィン・キャメロン判事が、会議2日目の7月19日午前、ジョナサン・マン賞受賞記念講演を行っています。その講演原稿の日本語仮訳をエイズソサエティ研究会議のHATプロジェクトのブログで2回に分けて掲載しました。

 

 エドウィン・キャメロン『人権をまもり、スティグマを解消する』

   ジョナサン・マン記念講演その1

   http://asajp.at.webry.info/201608/article_1.html

  ジョナサン・マン記念講演その2

   http://asajp.at.webry.info/201608/article_2.html

 

 ジョナサン・マン博士は1980、90年代の世界的なエイズ対策の牽引役を果たした米国の医学者で、1998年にニューヨーク発の航空機の墜落事故で亡くなっています。人権を基本にすえた対策を重視した研究者として有名です。世界のエイズ対策の大きな方向性は90年代に世界保健機関(WHO)の世界エイズプログラム(GPA)部長だったジョナサン・マン博士と国連合同エイズ計画(UNAIDS)の初代事務局長だったピーター・ピオット博士の2人によって示され、基本的にはその路線が現在も受け継がれているといってもいいでしょう。

 隔年で開かれる国際エイズ会議では、そのマン博士を記念する特別講演が毎回、行われています。2年前の第20回メルボルン会議では、オーストラリア高等裁判所最高裁)のマイケル・カービー元判事が開会式で講演しています。今回はそのカービー元判事をメンター(指導教師)と仰ぐキャメロン判事でした。

 医学の専門家の間で「予防としての治療」が流行終結の切り札であるかのように語られる中で、国際エイズ会議のジョナサン・マン記念講演の講演者に人権の重視を強調し続けてきた法律家2人が連続して選ばれたことになります。HIV/エイズの流行への対応が一筋縄ではいかないことを示しているのではないかと私には感じられました。

 HATプロジェクトのブログには、2年前のマイケル・カービー元判事の演説の日本語仮訳も2回に分けて掲載してあります。こちらもあわせて参考にしてください。

 

 AIDS2014 開会式 ジョナサン・マン記念講演1

   http://asajp.at.webry.info/201407/article_15.html

 AIDS2014 開会式 ジョナサン・マン記念講演1

  http://asajp.at.webry.info/201407/article_16.html

 

  カービー元判事はこの中で「エイズパラドックスエイズの逆説)」を紹介しています。ざくっとまとめれば「HIVに感染した人たちを処罰し、排除しても、HIV感染は減らず、逆にHIV陽性者を守ることがHIV感染の予防にも効果がある」という趣旨でした。単なる個人的感想ですが、私は「予防としての治療(T as P)」の効果を否定するつもりはおおむねありません。ただし、それはあくまで「予防としての支援(S as P)」があってはじめて成り立つものだと改めて納得するパラドックスでした。

 

 ということで、例によって前置きが長くなってしまいましたが、今回のキャメロン演説です。キャメロン氏は1997年から抗レトロウイルス治療を開始しています。自分自身も含め多くのHIV陽性者が生きてこられたことを感謝し、「千数百万もの人に抗レトロウイルス薬(ARV)の提供を可能にした医療関係者、研究者、アクティビスト」といった人たちを称えています。

 とくに南アフリカの治療行動キャンペーン(TAC)を中心にした治療の普及を求める世界的な運動には前回のダーバン会議前後の状況を振り返りつつ、次のように語っています。

 『治療行動キャンペーンと世界中の彼らの仲間が正面から闘いを挑みました。その闘いが保健医療と必須医薬品に対する私たちの考え方を大きく変えてきたのです。治療行動キャンペーン(TAC)がなければ、1999年から2004年にかけて、エイズ否定論をもてあそんだムベキ大統領の悪夢は打破されずに続いていたでしょう』

 ただし、それでもエイズの流行は続いており、対策はまだ道半ばであることも判事は強調しています。南アフリカでは現在、310万人のHIV陽性者が抗レトロウイルス治療を受けています。世界最大の抗レトロウイルス治療大国です。国内のHIV陽性者は600万人を優に超えているので、それでもなお陽性者のほぼ半数はARV治療を受けていない状態です。世界全体で見ても2015年末時点で抗レトロウイルス治療を受けている人の数は1700万人で、HIV陽性者数3670万人の半分以下です。

 判事は『さらにひどいことに、ARVの利用の可否は、私たち人類の弱点と悪習を反映しているのです。偏見や憎悪、恐怖、利己主義などにより、私たち自身が他の人を治療から遠ざけています』と語っています。

 『ARVを必要とする人の大半は貧しく、社会から疎外され、スティグマの対象とされています。貧困や性的指向性自認、仕事、薬物使用、刑務所に入れられていることなどを理由にスティグマを受けているのです』

 個人的な感想で恐縮ですが、キャメロン判事の演説にはおおむね共感できました。ただし、予防としての治療、およびその前段の検査の普及を進めるうえで、いくつか日本の現状に当てはめるとしたらもう少し、検討が必要ではないかと思われる部分もありました。たとえばPrEPについて。判事は次のように語っています。

 『曝露前予防策(PrEP)はセックスワーカーに有効です。すべての国のエイズ治療プログラムの中で、緊急優先順位の最初に利用できるようにすべきです。世界保健機関(WHO)は2015年9月、セックスワーカーを含め「HIV感染の相当なリスクがある人」すべてにPrEPを提供するよう勧告しています』

 南アフリカでは今年6月から『セックスワーカーに毎日、PrEPを提供するプログラム』が始まったということです。

 

 検査については『常に本人の同意が必要です』と指摘しています。しかし・・・として、すぐに次のような指摘が続きます。

 『不必要に煩わしい条件を課すことのないよう注意する必要があります。HIVはいまや完全に医学的管理が可能な病気になっています。はきり言わなくても推測が可能なかたちで同意を得られるようにすべきです』

 あれ?と思いました。OPT-OUT検査の勧めでしょうか。そのすぐ後の部分も引用しておきましょう。

 『このことは強く指摘したいと思います。検査の手続きが困難になれば、HIVをめぐるスティグマと恐怖を増大させることになります。繁雑にするのではなく、検査は簡単に受けられるようにしなければなりません。検査が差別と利益喪失と追放の入口であるような日々は、もう過ぎ去ったのです』

 OPT-OUT(積極的に検査を受けたくないと申し出ないかぎり、検査に同意したと見なす)かOPT-IN(検査を受けることを希望した人のみに検査を提供する)かという二者択一の議論にはなっていませんが、発言の趣旨はORT-OUTに大きく軸足を置いているのかなあという印象を受けます。

 

 PrEP、およびOPT-OUT検査の導入。この2点はおそらく今年の秋か来年早々には始まると思われるわが国のエイズ予防指針の(5年に1度の)見直し作業の中で、確実に重要な論点になるのではないかと思います。国内に600万を超えるHIV陽性者人口を抱え、310万人に抗レトロウイルス治療を提供しても、ほぼ同数の治療を受けられずにいる人が存在する。そうした南アフリカの困難な状況と、何とか年間の新規報告数か1500人前後で横ばいの状態を保ってきた日本の現状を一律に論じることはもちろんできません。ただし、医学研究の成果を踏まえたエイズ対策の国際的な動向にまったく無頓着でいることも困難でしょう。

 どうするか。月並みな言い方でお茶を濁すようですが、ここは議論を恐れずということでしょう。6月のエイズ流行終結に関する国連総会ハイレベル会合、および7月のダーバン会議の関連文献をいくつか日本語に訳していく辛気くさい作業を誰に頼まれたわけでもなく続けてきました。たぶん誤訳も多く、つたない日本語仮訳ではありますが、そうした議論に役立つことができれば幸いです。