石の壁の夏 再び エイズと社会ウェブ版 232

 ニューヨークのグリニッチビレッジにあるバー「ストーンウォール・イン」とその前にある公園が米国の史跡に指定されるというニュースが昨日、伝えられました。 

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 実は私がストーンウォール・インの存在を知り、その前にある公園を初めて訪れたのは1994年の6月でした。ニューヨークでストーンウォール暴動25周年の行進があり、さまざまな関連行事も開催されていたので、エイズ対策の観点から取材したのがきっかけです。

 2年後にその記憶をもとに書いた詩と、2006年に付け加えた蛇足の説明を以下に紹介します。「エイズの時代を生きる」というテーマの一連の詩は、いつか詩集にしたいと心秘かに思いつつ、実際はときどき思いついたように書く程度でしたが、それでも20編程度になったでしょうか。秘かではなく「そんなことを思っているんだけど」と親しい友人に話すこともありましたが、大概は「そんなもん、誰が読むか」とせせら笑われて終わりですね。つくづく友達に恵まれることの少ない人生だったなあと思います。
 ただし、個人的な感想を言えば、せせら笑われてもしょうがないなあとも思います。そもそもエイズ関係の本はこれまでに何冊か出しているのですが、あまり売れていません。編集を担当していただいた方からは、いつもいい本なんですけどねえ・・・と言われるのですが、買わない人は買わないんだねえ。ましてや、詩集となるとこれは二の足を踏みます。

 ま、愚痴はともかく、「そういうことなら私にも考えがありますよ」と居直って、隙あらばFace bookやブログで紹介してしまうので、あ、またか、と思われる方もいるかもしれませんね。長文ですが悪しからず。

   ◇

詩編・エイズの時代を生きる9 石の壁の夏

 

『石の壁の夏』

ようこそニューヨークへ

テレビカメラに向かって

サングラスの男がいった

石の壁と呼ばれるビレッジのバーで

女装のクイーンが

制服警官の向こうずねを

思い切り蹴っ飛ばしてから

25年が過ぎていた

 

ようこそニューヨークへ

世界の首都へ

6月の空は青く晴れ渡り

地上では

男たちが胸の筋肉を盛り上げ

女たちもTシャツを脱いで

日に焼けた乳房を誇示しながら

石の壁を通り過ぎていく

男と男、女と女

そして時には男と女

クリストファー通りの

歩道を埋める人の波の中で

わっ、スーパーに入ったみたい

目移りがする

と僕の友人は声を弾ませた

この町で最も尊敬されない存在である

ヘテロセクシュアル日本人すけべおじさん

と化してしまった僕には

単なる上半身裸の男の人ごみにしか

見えなかったけれど

花の飾られたアパートの窓という窓から

虹の色の旗が6月の風になびくと

心はやはり浮き立たずにはいられない

 

ようこそニューヨークへ

ストーンウォール暴動二十五周年

日本からきた若者たちは

カタカタと下駄を踏み鳴らして

国連からセントラルパークまで

主催者発表100万人の

ゲイとレズビアンの行進に加わり

僕はつかず離れず

慎重に距離をはかりながら

6月の光の中を歩いた

ファッション技術大学では

同性愛者の世界会議が開かれ

ミナミさんやオーイシ君が

同じ年の8月

横浜で開かれるエイズ会議への

参加を呼びかけた

五輪メダリストのルゲイニス選手は

ゲイであることを公表したけれど

HIVに感染していることは黙っていたので

くるりと一回転すると

小さな水しぶきをあげて

記憶の底に消えていった

 

ようこそニューヨークへ

1994年6月26日

だれもが心浮き立つ夏の日

テレビカメラに向かって

サングラスの男がいった

エイズ25周年に

また集まりますか

   (1996)

 

 ニューヨークのグリニッチビレッジでは1969年6月、「ストーンウォール・イン」というゲイバーに警察の手入れが入ったのをきっかけに3日間にわたる暴動事件が起きました。米国で同性愛者が自らの権利を主張する最初の動きとされるその「ストーンウォール暴動」から25年後の1994年6月、マンハッタンでは25周年を記念する大行進が行われました。イーストリバー沿いにある国連本部からセントラルパークまで、短いコースだったのですが、参加者があまりにも多かったため、朝から始まった行進は夕方になってもまだ続いていました。

そのときゲイコミュニティが抱える最大の課題はエイズの流行でした。ゲイコミュニティだけでなく、ニューヨークという町が抱える最大の課題であったといってもいいでしょう。私も取材のために行進のコースを歩き、世界中からあまりにも多くの人が参加しているのに驚き、それと同時にエイズの流行の深刻さを改めて認識しました。

 「エイズ25周年にまた集まりますか」というのは、旧知のエイズアクティビストが地元テレビのニュースのインタビューに答えた時のひと言です。エイズの公式症例が米国で初めて報告された1981年から13年。エイズ25周年はまだ遠い先のことだとみんなが思っていました。当時はまだ、抗レトロウイルス薬の多剤併用療法の効果などは確認すらされておらず、単剤の投与では薬剤耐性ができて結局、効果はないということがはっきりしてきて希望を失いつつある時期でした。長く困難なエイズ対策に疲弊し、米国ではコンパッション・ファティーグ(同情疲れ)などという現象が指摘される中で、初期のエイズ対策を支えてきた指導者たちの多くがエイズを発症し、衰弱が激しくなって次々に亡くなっていく時期でもありました。

 希望の見いだせない困難な日々。「エイズ25周年」である2006年は12年も先でした。その頃には、俺たちはもう生きてはいないだろう。ストーンウォール25周年の行進に参加したHIV陽性者のほとんどはそう考えていたと思います。そうした背景を踏まえた「また会いますか」というひと言には強烈な怒りが含まれていました。

今年はすでにエイズ25周年を通り過ぎて、26周年です。世界エイズデーも20回目を迎えます。治療の進歩により、当時、知り合った人たちの多くがいまなお健在です。ただし、現在の治療といえども病状の進行が完全に抑えきれるわけではありません。副作用に悩みつつ治療を継続していくのも簡単なことではありません。エイズという病気にまつわる偏見や差別も根強く社会の中に残っています。

そして、途上国では毎日、多数のHIV陽性者が必要な治療を受けることも出来ずに死んでいく現実があります。最新のUNAIDSの報告では、世界の新規HIV感染者数、およびエイズによる死者数に減少の傾向がわずかながら見られるようになったということでしたが、その希望はまだかすかなものです。わずかな希望の兆候に安心してしまえば、たちまち流行は拡大への再軌道をとることになるでしょう。先進国でも途上国でも、困難なエイズの日々はいまなお続いています。