【湘南の風 古都の波】春まだ浅く涅槃の日

 今日はまた、おそろしく暖かい日でした。こうなると反動が怖い・・・。春ですねえと素直に喜べないタイプなもので。毎月第3土曜日のSANKEI EXPRESSの連載【湘南の風 古都の波】、2月21日掲載分です。渡辺照明記者の写真はこちらでご覧ください。
 http://www.sankeibiz.jp/express/news/150223/exg1502231735004-n1.htm


【湘南の風 古都の波】春まだ浅く涅槃の日

 強い日差しを受けて輝く北鎌倉の建長寺三門で、お坊さんが「おはようございます」と声をかける。「本日はお釈迦さまがお亡くなりになった日です。涅槃会(ねはんえ)といいます」と説明しながら、手書きコピーのチラシを配っているのだ。

 お釈迦さまの誕生日の4月8日を祝う「花祭り」は灌仏会(かんぶつえ)、悟りを開いた12月8日は成道会、そして命日の2月15日が涅槃会。総称して三仏会と呼ばれる。

   願わくは 花の下にて 春死なん
     その如月(きさらぎ)の 望月の頃

 いただいたばかりの手書きコピーの受け売りで恐縮だが、「如月の望月」は旧暦2月15日で、新暦になおすと4月の上旬なる。

 まさに花の季節。西行法師の歌には、自分もお釈迦さまの亡くなった日に…との願いが込められているという。ただし、いまは涅槃会も新暦の2月15日に行われているので、少し季節感がずれる。

 午前10時、重要文化財の法堂(はっとう)に高僧が集まり、大太鼓が打ち鳴らされる。お釈迦さまの入滅の時を描いた涅槃図の前に、少量の砂糖を入れた湯、ご飯、そして抹茶が供えられ、焼香、読経が続いた。30人余りのお坊さんが堂内を何周も練り歩きながら「楞厳呪(りょうごんしゅう)」を唱える。三仏会などごく限られた機会にしか読まれないお経だ。

 法堂の周囲はぽかぽか陽気。だが、堂内に日は差さず、五色の布を揺らして吹き抜ける風もまだ冷たい。春であり、冬でもある季節の中で、涅槃会は粛々と続けられた。

 

 ≪右手を頬に添えて救済の思椎≫
 年末から続く寒さが身にしみていたせいか、ふくよかな表情を見ると心も体も温まる気がする。鎌倉市西御門(にしみかど)の来迎寺に安置される如意輪観音像はかつて、源頼朝をまつる法華堂の本尊だった。

 その法華堂が明治初年の廃仏毀釈(きしゃく)で取り壊され、観音像は近くにある来迎寺の客仏となった。ほぼ等身大の寄せ木造りで、膝などの立体的な衣の線は土文(粘土、漆などを混ぜて型で抜き、貼り付けた文様)と呼ばれる。鎌倉・南北朝時代にはお坊さんが中国から直接、鎌倉を訪れることも多く、京都には見られない宋朝様式の仏像が残されたといわれる。

 来迎寺の如意輪観音は一面六臂(いちめんろっぴ)。つまり、お顔は一つで腕が六本。右の第一手は頬に当て、地獄に落ちた人の救済策を考えている。以下、第二手=餓鬼道の人たちの救済(胸前で宝珠を持つ)。第三手=畜生道救済(下げて念珠を持つ)。

 左は、第一手=阿修羅道救済(伸ばして台座に触れる)。第二手=蓮の花のように清らかに(曲げて蓮華を持つ)。第三手=天上界から悪を救う(差し上げて指上に宝輪)。つまり、地獄、餓鬼、阿修羅、畜生、人間、天上の六道(りくどう)に対応しているわけですね。

 鎌倉には西御門と材木座に来迎寺がある。どちらも時宗のお寺。西御門来迎寺の林学善住職によると、同じ名前のお寺は全国に100カ寺くらいある。「直線距離で2キロぐらいというのは珍しいけれど、名前と宗派が同じという以外に直接の関係はありません」という。

西御門の来迎寺は1293年の鎌倉大地震で亡くなった人を供養するために建てられたお寺だそうで、林住職は「以来700年、細々と続いてきました」と話す。西御門という地名は、鎌倉幕府最初の所在地だった大倉幕府の西の門があったことに由来し、一帯には7つのお寺があった。ただし、そのうち6カ寺は廃寺となり、いまは来迎寺だけが残っている。

 本堂には、本尊の阿弥陀如来の他に、法華堂から移された如意輪観音像、地蔵菩薩像、跋陀婆羅(ばつだばら)尊者像も客仏として安置されている。地蔵菩薩像は廃寺となった禅宗寺院・報恩寺の本尊でこちらもほぼ等身大。岩の上で座禅をする姿は、南北朝時代の代表的な法衣垂下像(衣の袖や裾を台座にかけ長く垂らした像)だ。

 跋陀婆羅尊者像は報恩寺の浴室にあったとされる。禅宗では生活のすべてが修業なので、お風呂にも尊者の像が祀られているのだという。

 鎌倉の歴史の波をくぐり抜けてきた三体の客仏はいま、来迎寺の本堂で静かに春を迎えようとしている。