キューバと日本  冷戦後脱却からの軌跡は?


 1月20日付ビジネスアイ紙に掲載されたコラムです。


キューバと日本  冷戦後脱却からの軌跡は?
 http://www.sankeibiz.jp/macro/news/150120/mcb1501200500006-n1.htm

 冷戦期のキューバは日本と奇妙な相似形を描いていたのではないか。1993年の秋に取材でキューバの首都ハバナを訪れ、そんな印象を受けた記憶がある。

 カリブ海の島国であるキューバは、地図で見るとちょうど、米国の喉もとに突きつけられた匕首(あいくち)のようだ。59年にキューバ革命が起き、61年に米国との国交を断絶。62年10月にはキューバ危機で米ソの緊張が核戦争寸前まで高まる局面もあった。

 そうした地政学上の位置の故に、東西冷戦期のソ連は、この島国に石油を安価で輸出し、キューバの特産品である砂糖を高く購入した。

 ソ連によるこの破格の厚遇があったからこそ、キューバ社会福祉や医療保健基盤を充実させ、高い教育水準を維持することができた。いわば米国の裏庭で東側のショーケースともいうべき優等国として存在することが許されていたのだ。

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 一方で、同じように資源の乏しい島国である日本はどうかというと、ユーラシア大陸の東の縁で、米国から経済上の厚遇を受け、戦後の復興と高度経済成長を実現することができた。ソ連極東の足下で西側の繁栄を体現する優等国になったという点で、条件はキューバと裏表の関係にあったのではないか。

 2つの優等国の豊かさを支えていたその条件は、冷戦の終結によって消えた。ベルリンの壁崩壊から4年後、ソ連崩壊からならほぼ2年後。93年の秋はそんな時期だった。ハバナの町では、早朝からオフィスや工場で働いていた労働者が昼前になると家路に就く。職場の給食が中止され、お昼を食べに帰宅するのだという。

 いったん家に帰った労働者は午後になってももう戻らない。したがって生産活動は午前中でストップする。

 もっとも、動いていても石油不足から8時間ごとに8時間の停電が毎日あるから大して働くことはできない。キューバ社会主義は崩壊寸前のように見えた。

 団地の市場には配給所があった。住民たちはそこで食糧を受け取る。その日の配給品はアジだった。冷蔵庫は停電で役に立たないから生の魚は早く食べなければならない。アジの調理法は聞き忘れたが、日本ならさしずめ、何千世帯もの巨大団地のすべての家庭で、夕食はアジの塩焼きということになる。

 キューバ政府はおずおずと市場経済化政策を取り入れ、その年の夏から外国人以外でも物資の豊富なドルショップで買い物ができるようになった。

 「子供の誕生日に運動靴を買ってやりたい」という若い父親が店のウインドーの前でため息をつく。10ドルのその靴はキューバ通貨に換算すると、父親の給料1カ月分に相当するからだ。米国に亡命した親戚からの仕送りが期待できない家庭では、ドルでの買い物など夢のまた夢だった。

 それでもキューバは持ちこたえた。亜熱帯性気候と豊かな土地、そして周囲は海。半袖1枚で生きていける生活環境。北の社会主義国とは異なる条件や社会主義体制下でもどこか明るい国民性が幸いした部分があるのかもしれない。

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 米国のオバマ大統領は昨年12月17日、キューバと国交正常化交渉を開始することを表明し、キューバ政府もそれを歓迎した。キューバラウル・カストロ国家評議会議長社会主義体制の原則は放棄せずに米国との関係改善をはかるとしているが、豊かさを望むキューバ国民の思いは、おのずと国のあり方を変えていくのではないか。

 冷戦の終結でキューバと日本の立場は大きく変わった。キューバほど劇的ではなかったが、日本もまた、冷戦の勝者とはいえない苦難を緩やかに、かつ継続的に受け続けてきた。その意味では、よく持ちこたえてきたということもできる。

 振り返ればキューバを訪れたのは四半世紀近くも前のことだ。持ちこたえるだけではなく、冷戦後を超える条件を生み出す力と創意と勇気がいまは求められている。

 日本にとっても2015年がその節目の年になることを期待したい。