無党派層のための首都決戦ガイド5  王様の耳

 

 最終回です。昔の連載に長々とお付合いいただきありがとうございました。去年は感染症報道と社会の対応みたいなことを考える機会が多く、今年もまた、それに輪をかけて多くなるような感じがするので、古い資料を探してきました。暮れの総選挙のことも未整理な部分が残っていたし、♪あんときゃ土砂降り~じゃなかった、あんときゃ、こうだったなあということが、何かを考えるときの材料になるかもしれません。

 

 

無党派層のための首都決戦ガイド5

 王様の耳 情報の寓意に満ちた選挙

 

 臓器移植法に基づく国内初の脳死判定が行われたのは二月二十五日だった。このときは「脳死とはいえない」との結論になり、二十七日から二十八日にかけて患者の家族の同意を得たうえで再度の脳死判定が行われている。

 ドナー(臓器提供者)の脳死を前提にした心臓や肝臓などの移植医療について報道を続けてきた記者たちは、もちろん人の死を期待して待っていたわけではないが、平成九年十月の臓器移植法施行以来、この法律に基づく脳死判定がいつ、どこで行われるのかをできるだけ早くキャッチしようとしてきた。

 高知赤十字病院で脳死判定が行われるとの情報が流れたとき、報道陣がわっと押しかけたのは、そのためだ。臓器移植法に基づく脳死判定が始まることを知りながらあえてその「現場」に記者を送り込まずに待っているマスメディアは少なくともいまの日本にはない。多数の記者が押しかけ、病院がニュースの「現場」なってしまえば混乱するのは分かっていても、それを止められないのだ。

 その結果、新聞やテレビなどマスメディアは厳しい批判にさらされることになった。解剖学者の養老孟司氏は週刊文春のコラム「異見あり」で「私がいちばん呆れ返るのはあれがニュースだと信じて疑わない、メディア関係者の常識である」と書いている。

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 米国では昨年、クリントン大統領の不倫・偽証疑惑が火を噴いた。ところが、マスメディアがいくらスキャンダルを書きたてても大統領の支持率は低下せず、批判の矛先は性描写まで克明に行おうとするメディアに向かっていった。日本でも米国でも、マスメディアはいま、大衆の敵意とでもいうべき反応に戸惑うことがしばしばある。これまでニュースだとされてきたものが拒絶されてしまうのだ。米国のアトランティック・マンスリー誌やUSニュース&ワールド・リポート誌の編集長を務めたジェームズ・ファローズ氏は著書「ブレーキング・ザ・ニュース」(邦題「アメリカ人はなぜメディアを信用しないのか」)でこう指摘している。

 《記者や編集者たちはみな、しだいに敵意をあらわすようになった国民の注意を引くために、ニュースを派手に、そして魅力的にしなければと思っている。しかし実際には、とくにメディアの主流が、哀れにも人々が知りたいと思っていることからかけ離れてしまっている》

 ファローズ氏はアトランティック・マンスリー誌一九八九年五月号に「日本封じ込め」を発表し、わが国では日本異質論者のイメージが強いが、「ブレーキング・ザ・ニュース」ではまえがきに「現在のやり方がメディア、とくに新聞の信用をいかに台無しにしているか、指導者を選び、より良い社会を実現していくという政治のプロセスをメディアがゆがめることで、国民ひとりひとりの将来がどんな影響を受けるかを説明したい」と執筆の動機を書いている。ワシントンで活躍する政治ジャーナリストにとってもメディアの現状に対する危機感はそれほど強い。

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 都知事選は九百七十万の有権者がたった一人の当選者を選ぶ選挙である。小学校で学級委員を選んだり、開拓時代の北米大陸で集会所に集まって物事を決めたりする際に想定されている民主主義とは大きく異なっている。民主主義が機能するには、選挙における投票という意思決定の前提として、有権者が候補者についての情報を十分に得ている必要がある。数はそうした質を確保して初めて意味を持つのだが、一千万近い有権者を抱える巨大都市で、それは可能なのだろうか。

 無党派層の存在がクローズアップされた前回の選挙では、マスメディアを使ってメッセージを送る以外、これといった選挙運動をしなかった青島幸男氏が当選した。青島ブームはもちろん、メディアの存在抜きには考えられないのだが、それと同時にメディアが介在することで初めて成立するはずの大衆社会と民主主義との関係に、どこかしっくりとかみあっていないような奇妙な違和感を持ち込む現象でもあった。

 この連載の冒頭で登場したミダス王は、触れたものすべてが金になる願いを放棄したことで欲望に関する寓話の主人公となった。実はもうひとつ、彼は「王様の耳はロバの耳」の有名なエピソードの持ち主でもある。情報に関してもまた、現代的寓意に満ちた権力者だったといわなければならない。