無党派層のための首都決戦ガイド1  メガヒット現象 (過去の資料から)

 1999年4月11日投票の東京都知事選挙青島幸男知事が任期切れの直前に不出馬を表明し、有力候補が続々と名乗りを上げる大乱戦となりました。当時社会部のデスクとしてこの選挙を担当し、現場の記者はなにかと忙しいし、なるべく負担をかけないようにと一人で始めた連載です。古い資料を調べていたら出てきました。なんだか懐かしいので再掲します。(連載は全5回ですが、ここに紹介するのはその1回目です)

 

 

無党派層のための首都決戦ガイド1

 メガヒット現象 だんごとヒカルに続くのか

 

 ギリシャ神話のミダス王は酒神ディオニソスから「なんでも一つだけ願い事をかなえてやる」といわれ、手に触れたものすべてが黄金に変わることを望んだ。希望がかなった王は食べ物までが黄金に変わってしまうのに閉口して結局、その願いを放棄するのだが、東京都知事選挙でしのぎを削る候補者ならいま、何を望むのだろうか。

 黄金とはいわないが、せめて握手をした人すべてが自分に投票するようになってくれたら・・・。そう願う候補者がいたとして仮定の計算をしてみる。

 二秒に一人ずつ、有権者と握手をし続けた場合、一分間に三十人、一時間では千八百人、一日の半分の十二時間をひたすら握手にあてたとして二万一千六百人。告示日の三月二十五日から投票前日の四月十日までの十七日間、このペースを毎日、維持しても選挙運動期間中に握手で固められるのは三十六万七千二百票である。これではとても当選はおぼつかない。

 九百七十万の有権者が直接投票でたった一人の当選者を選ぶ都知事選は考えてみればとんでもない選挙である。百万票では当選ラインに遠く及ばず、過去には二百万を超える大量得票を果たしても勝てなかった例もある。そしてその百万とか二百万というのは、片っ端から握手をした相手を支持者にするといった魔力を持ってしても到底、届かない巨大数字なのだ。

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 都知事選をはじめ十二都道府県の知事選が告示された三月は、各陣営がよだれを垂らしたくなるようなメガヒットが社会的な話題を集めた月でもあった。

 三月三日にシングルCDが発売された「だんご3兄弟」は翌四日には百万枚を突破し、二十九日現在で三百七十五万枚の売り上げを記録している。かつて「十五、十六、十七と私の人生暗かった」と歌った演歌歌手、藤圭子さんの娘で、十六歳のシンガー・ソングライター宇多田ヒカルさんのファーストアルバムは十日の発売から五日間で四百万枚が出荷され、三十日現在五百十三万枚に達している。

 どうしてこの時期にメガヒットなのか。なぜ「だんご」がブームになるのか。理由はよくわからない。

 ビクターレコードの制作本部長時代にピンク・レディー売り出し作戦を指揮した往年のヒットの仕掛け人、久野義治さんは最近、音楽業界の後輩たちから「中ヒットがなくなった」という嘆きの声をよく聞く。

 「百万枚を超えるメガヒットはそう簡単には生まれないので、レコード会社のプロとしての腕の見せ所は二、三十万枚の中ヒットをいかにコンスタントに出し続けるかだった。ところが最近はメガヒットが登場する一方で、他の曲は売れない。五万枚いくかいかないかなんです」

 久野さんによると、マーケティングの世界で大衆の嗜好が多様化しているとさかんにいわれるようになったのは一九八〇年代の半ばだった。好みの多様化にあわせ、中ヒットこそが増えると考えられていたのに、現実には中ヒットは消え、人々の関心は少数のメガヒットへと雪崩を打つように流れていく。

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 「だんご3兄弟」の生みの親で、四月から慶應大学の教授となるCMプランナーの佐藤雅彦さんは毎日新聞の連載コラム「毎月新聞」で「ブームになったら危険信号」と書いている。「ブームにおける消費」は「まわりの人が持っているから、マスコミがものすごく取り上げているから」といった理由の「中身を置いてきぼりにしてしまう記号的な消費」になり、「手に入れてしまえば、その商品に対して興味も愛着も続かない」というのだ。

 そしてそのブームのまっただ中に投げ込まれてしまった佐藤さんは「ブームが記号的な消費の形であるなら、それに対抗するのは、そのものが生まれた本来の意味をもう一度、何らかの方法で取り戻すことなのかもしれない」とコラムの中で指摘している。

 再び都知事選に話題を戻せば、前回の選挙で無党派層をつかんだとされる青島幸男知事の勝利はまさしくブームであり、メガヒットといえた。

 その青島ブームが「中身を置いてきぼりにしてしまう記号的な消費」だったとしたら、青島知事の不出馬声明を受けて戦われている今回の選挙は「をもう一度、何らかの方法で意味を取り戻す選挙」なのかもしれない。

 選挙戦はいよいよ終盤を迎えようとしている。巨大な無党派層の存在は、候補者にとってだけでなく、無党派層を構成するはずの当の私たち一人ひとりにとってもとらえどころのない怪物のように映る。二十世紀最後の首都決戦で私たちは何を選ぼうとしているのだろうか。