泣くまいと思うとまた泣けてくる エイズと社会ウェブ版165

 

 大阪で開かれていた第28回日本エイズ学会学術集会総会からようやく戻りました。今回は3日間の学会の中日である4日午後に行われたメモリアルサービスでスピーチのトップバッターに起用されるという大役をお引き受けし、かなりプレッシャーを受けた学会でした。人前で話をすると、悲しいわけでも、感動しているわけでもないのになぜか声が詰まり、涙が出てくるという困った性分なので、事前に資料を用意し、それを配布して、その中の詩の部分を読むという作戦にしましたが、案の定、声が詰まりまくってしまい、次にスピーチをされた方には大いにご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ない。これまでにもあちらこちらで紹介したことがある詩なので、またかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ブログも引っ越したことだし、当日の配付資料を以下に掲載します。

 

   ◇

 

キャンドルライト97

 

若くして世を去った友人たちよ

わたしはいま

この小さなろうそくの炎の前で

ささやかな証言をしようと思う

 

あなたたちのだれ一人として

典型的なエイズ患者などではなかった

たとえ衰えゆくことがあろうとも

そのことはあなたが

エイズ患者という抽象であることを

意味するものでは決してない

 

あなたはあなたの苦痛を生き

あなたの死を死んでいった

そのことがかりに

わたしの空虚の原因であったとしても

あなたが

わたしのために

存在していたことにはならない

 

若くして死んでいった友人たちよ

あなたの死はあなたのものであり

わたしのためにあったのではない

 

そのことを追認するために

わたしはいま

この小さなろうそくの炎の前で

あなたとの時をかすかに

共有したいと思う

 


(補足)
 この詩は、1997年5月に新宿で開かれたキャンドルライト・メモリアルに寄せて書きました。参加者は二十人ほどだったと思います。

 ニューヨークから日本に戻り1年になろうという時期でした。日本でもアメリカでも、取材を通じて知り合うことになったHIV陽性の方が数多く亡くなっていました。その前年に抗レトロウイルス薬を併用する新たなエイズの治療法が効果をあげていることが発表され、エイズで亡くなる人の数は少なくとも先進諸国では激減しました。しかし、その治療が間に合わず亡くなっていく人も少なからずいました。HIVに感染している人たちにとっては、治療の進歩と病状の進行とのタイムレースを生きるような切ない時期でもありました。

 感染している人が、自らの意思に反して感染の事実を明らかにする必要はありません。したがって、HIV陽性者の支援活動や感染予防活動を続ける団体にもたくさんの陽性者が参加していたと思いますが、新聞記者である私には誰が感染しているのかは分かりません。積極的に知ろうとも思いませんでした。

 いつもきていた人の姿がしばらく見えなくなる。あの人はどうしたのかなと聞いても、支援などの活動を続ける人たちからは、あいまいな答えしか返ってこない。ああ、あの人もエイズで亡くなったのかな。そんな風に推察しなければならないことも何度かありました。

それは悲しいことでしたが、新聞記者である私には悲しむ資格はない。そもそもエイズの取材で知り合ったということは、少なくとも、その人たちの遠からぬ死をあらかじめ予期して接しているということなのではないか。どんなに親しくなったとしても、私が悲しむことは不当である。そんなことも考えました。かなり無理をしていた時期だったのかもしれません。

 いま、治療を続けていくことにより、たくさんの方が当時、考えられていたよりはるかに長く生きていけるようになりました。生きていくうえでの困難にどう立ち向かっていくか。それが大きな課題となっている時期に、死の側からエイズを語るような詩はむしろ疎まれるかもしれません。でも、そのような時期を潜り抜けていまがあることを、私は忘れたくない。そう思っています。