4274 【湘南の風 古都の波】文豪しのぶ路地の夕暮れ

 

 昨日も今日も、めまぐるしくお天気が変わりましたね。長い夕暮れ。これはまあ、人生至福の時といいますか・・・。17日(土)のSANKEI EXPRESS紙に掲載された【湘南の風 古都の波】です。記事だけの紹介で申し訳ありません。おまけだけで本体のキャラメルが付いていないような・・・。ちょっと違うか。渡辺照明カメラマンの見事な写真はこちらでご覧ください。
 
http://www.sankeibiz.jp/express/news/140520/exg1405201455005-n1.htm


【湘南の風 古都の波】文豪しのぶ路地の夕暮れ
 異論反論が渦巻くに違いないが、あえて選んでみよう。鎌倉を歩くのに最もいい季節はいつなのか。
 5月の…、つまり今頃ですね。私ならそう答えたい。4月のお花見や鎌倉まつりが終わり、ゴールデンウイークも過ぎて、心なしか人出も減ってくる。6月になるとアジサイめぐりでまた、大変な人になるのだが、それまでのプチ端境期といいますか。
 束の間の、それもほんの気持ち程度の変化なのかもしれない。それでも町には落ち着きが戻ってくる。
 鎌倉の魅力は路地だという人がいる。とくに夕方が捨てがたい。日常生活の延長でありながら、ルーティーンとは少し異なる時と場所。こういう空間って、ありそうでないんだよね。
 たとえば、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側の閑静な住宅街を抜ける路地。近隣にお住まいの方のご迷惑になってもいけないので、そっと通り抜けていただくとして…ここには鎌倉時代の政治の中心だった若宮大路幕府跡の石碑がある。そのすぐ奥、左の道に沿う板塀の向こうには大佛(おさらぎ)次郎茶亭が続く。
 鎌倉の自然と景観の保存に重要な役割を果たしてきた鎌倉風致保存会の生みの親の一人で、作家の大佛次郎は、1921(大正10)年から亡くなるまで50年以上も鎌倉に住み、52(昭和27)年にこの屋敷を購入している。風致保存会でいただいた資料によると、敷地約1000平方メートル、木造平屋の建物は約94平方メートル。住まいは路地を隔てた向かいにあったそうで、茶亭は書斎や文士仲間の交流の場になっていた。
 そうか。吹く風もさわやかな初夏の夕暮れ、茶亭の前をそぞろ歩けば、それだけで原稿がうまくなるような…、ならないか。


 ≪苔の石段 新緑が包む静寂と喧噪≫
 鬱蒼(うっそう)とした木立に囲まれながら、苔むした石段にもどこか初夏の輝きが感じられる。新芽が育っているせいか、苔独特の深い緑がやや浅く、若々しい。
 周りで咲くシャガの淡い紫もよく映える。
 上がってみたい。ついついそう思ってしまうが、石段を保護するため、通行は禁止されている。
 たくさんの人が通れば石段は崩れてしまう。せっかくの苔もたちまち踏みつけにされ、姿を消す結果を招くだけだろう。通行禁止は致し方あるまい。
 苔石段は何段あるのか。脇道の細い段々を上がりながら、目で追って数えてみる。59…、60段? まあ、そのあたりでしょう。
 年をとると目がチカチカして、こういう作業は少々つらい。厳密な計測は早々に諦め、早緑と深緑のコントラストを楽しみながら人生に疲れたマナコを癒やすとしよう。
 松葉ヶ谷には妙法寺をはじめ安国論寺長勝寺など日蓮宗のお寺が多い。日蓮上人が房総半島から鎌倉に移り、布教のために最初に庵を結んだ地であり、1260(文応元)年には、日蓮の教えに反感を持つ鎌倉の僧や武士がこの草庵を襲った。「松葉ヶ谷の法難」として、いまに伝わる焼き打ち事件である。
 苔石段の上に出て、さらにもうひとつ長い石段を上がると、山の中腹にその草庵跡と伝えられる石碑があった。
 そこからもまた、上りの山道が続く。裏山の頂上付近には、南北朝時代大塔宮護良親王の墓。後醍醐天皇の第三皇子で、鎌倉幕府倒幕の兵を率いたが、後に足利尊氏と対立して捕らえられ、鎌倉で非業の死を遂げた。その護良親王の子である日叡上人が草庵跡に堂伽藍(がらん)を復興したのが妙法寺だという。
 親王の墓の付近は木々の間に少し眺望が開け、鎌倉市街地と海岸線が見える。新緑の境内を歩いている間は、深い木立に覆われて聞こえなかった町の音が、親王の墓のあたりまで上がると逆に届いてくる。
 静寂と喧噪(けんそう)の不思議なコントラスト。歴史の変遷に耐え、寺社に守られ、鎌倉に住む人にも鎌倉を訪れる人にも親しまれてきた…その豊かな自然がいかに貴重なものであるか。至近の町が眼下に広がる分だけ、その奇跡が身にしみて伝わるようでもある。