4241 【鎌倉海びより】69  真冬のボート事故をしのぶ

 こんなに晴れているのに、こんなに寒い。改めてその厳しさが身にしみます。SANKEI EXPRESSの連載コラムです。


【鎌倉海びより】69  真冬のボート事故をしのぶ
http://www.sankeibiz.jp/express/news/140121/exg1401211131000-n2.htm

 

 正月寒波が居座る3連休初日の11日、再び稲村ケ崎海浜公園を訪れた。風がなく、日差しも強いのに寒い。日陰に入るとたちまち頬がこわばってしまう。

 こんな日に徒歩片道20分の遠征を敢行したのは、公園に「真白き富士の嶺」の記念碑(ボート遭難像)があるからだ=写真。

 

 

 逗子開成中学校の生徒11人と小学生1人を乗せたボートが七里ケ浜沖で遭難したのは1910(明治43)年1月23日の昼下がりだった。つまり明後日で104周年。

 うかつにも私は、もっと暖かい季節だと思い込んでいたのだが、雪をかぶった富士山が真っ白に見えるということは当然、冬です。鎌倉市教委発行の『かまくら子供風土記』によると、海軍払い下げのカッターボートで逗子から江ノ島へ行き、また逗子に戻る途中だった。『この日の海は寒く、午後からは次第に西風が激しさを増してきました』という条件の中、ボートは山のような大波にのまれ転覆した。

 捜索の結果、25日から27日にかけて遺体が次々に収容されると、中学生の兄が小学生の弟を胸に抱きかかえた状態で息絶えて見つかり、その兄弟愛は当時の人たちの涙を一段と誘った。

 東京五輪の1964(昭和39)年に建立された記念碑のブロンズ像は彫刻家、菅沼五郎作。すがりつく弟を抱きかかえ、兄は大きく手を振って助けを求めている。その海の先に見えるのは「緑の江ノ島」だ。台座にも『友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容された』と記されている。

 「真白き富士の嶺」の歌は当時鎌倉女学校(現鎌倉女学院)の教諭だった三角錫子が作詞し、葬儀に参列した女学生達が歌って霊を慰めた。口ずさめばいまも哀切の思いが伝わってくる。